法律の世界の限界
最高裁判事殿、大した理想を仰せだが、この大部分を大都市出身者で占める人気者集団が「全國民を代表して国政に関与」し、全国津々浦々に散在する過疎地の住人たちまで目配りし、全国土の辺土に至るまでの総合的な維持、発展を適切に担へるか。机上の空論とはこのことだ。
但し、そんな厄介な部分(地方)は、国政に於ける負のお荷物だから配慮するに及ばぬ。切り捨てた方が効率が良いとの考へがあるかも知れぬ。シンガポールはどうやら効率が良ささうだ。問題は此処にある。一連の「訴訟グループ」の思念の中に、意識するとしないとに拘はらず、その動機がおそらく潜んでゐる。
尠くとも辺土と僻地住民への惻隠の情は皆無であり、そのこと自体に何等、痛痒を感じてゐないだらう。有れば、斯かる訴訟は起こさぬ筈だ。
最高裁判事は、云ふまでもなく法律家である。訴訟を起こした「弁護士グループ」も法律家である。両者とも、立場は違へども法律一筋で半生を過ごし、云ふなれば、法律を武器にして利害を争ふ世の揉め事を飯の種にして生きて来たし、これからもそれで生きて行くであらう皆様だ。然し、この世は法律が全てではない。己の生きて来た世界の限界を知るべきだらう。
司法が「政治制度の在り方」に介入し、最高裁が最終決定する今次事案は、重大にして且つ深刻な問題だ。その深刻さを、世人は、いや、当の政治家ですら全く認識してゐない。
行政課題は人口が全てか
行政課題は人口が全てではない。
我が山梨県は人口ほぼ85万人で、下位から7番目の小さな県である。東京の世田谷区は88万人を擁して、これよりやや多い。
古名の「甲斐」一国を以て一県を成してゐる小ぢんまりした山ばかりの小さな県だが、限界集落やら要介護世帯やら、困難な行政課題は一通り揃つてゐる。筆頭は治世の基本たる治山治水であらう。一度豪雨に見舞はれれば河川氾濫、土砂災害、道路寸断、僻地集落の孤立は毎度のことである。
衰退する諸産業について此処で多くは触れぬが、建設業、観光業、地場の宝飾業、醸造業に葡萄や桃の果樹農業、畜産、火の消えたシャッター通りなど、固より第一義的には自助努力であるにせよ、国に申し入れたき儀は山積である。