少し視点を変へて、田舎の話をしよう。
戦後ほぼ半世紀、田舎はずうと大都市に貢いできたのである。
昭和から平成の始め頃まで、田舎の町村の人口は4月になると、一気に大幅な減少を見せるのが通例であつた。
昭和52年、山梨県南巨摩郡中富町(現在、合併して身延町の一部)の事例だが、人口ほぼ6600程度(当時)の町で、例月平均8人程度の自然減で推移してゐたものが、同年3月から4月にかけて、一度に44人、即ち5倍以上、減少してゐる。高校を卒業した若者たちが就職や進学などで転出するのである。
4月に直ちに転出手続きをする例は寧ろ少ないから、転出実数はこの倍はあるとみてよいだらう。
同年の町内の中学三年生(即ち15歳年齢の人口)は100人丁度であるから、18歳人口もほぼこれと同じとみて、18歳人口の半数以上が、桜咲く春4月、一斉に町外へ散って行くのだ。これはたまたま抽出した一例であり、おそらくこれは全国規模で繰り返された現象である。
彼らの行く先は主として東京、若しくはその周辺の首都圏大都市である。
大都会はいいとこ取り
就職した若者たちは、直ちに大都市の経済活動を支へる労働人口の一員である。同時に、旺盛な消費者として都市の繁栄に寄与することとなる。就職したばかりの子供たちに、さらに仕送りをする親たちも少なくない。高卒の乏しい給料だけでは生活が苦しからうとの親心である。つまり、彼ら少年少女たちは稼ぎ以上に消費してくれるのだから、大都市商業の賑はひは愈(いよいよ)盛んになる訳だ。
進学した子供たちへの仕送りはさらに大変だ。2、3人、東京の大学へ入学させた親で、毎月数十万円送金したなどの例も幾つか聞いた。高度経済成長の時代とは云へ、懸命に働き、涙ぐましくもつましく暮らし(親馬鹿などの評価は別として)、子供への送金も楽ではなかつたらう。私鉄によくある「なになに大学前」の駅周辺の商店街の繁栄は、その田舎の親の苦労の果実を頂戴してゐたのである。
その子が卒業して就職すれば、今度こそ一人前の生産人口にして且つ旺盛な消費人口、大都市の活力の源である。しかし、そこまでに育て上げたのは誰か。
誕生時から乳幼児の保育、町村立の小中学を経て高校まで、地元自治体と親が、手塩(と予算)に掛けていつくしみ、育て上げ、やつと一人前にして、さてこれからと云ふところで、東京などの大都市へ送り出すのだ。
旺盛な生産(消費)活動の全盛期を終へ、定年退職した、若しくは事業をリタイアした高齢者が田舎へ帰つて来る事例も少なくない。固より大歓迎だが、疾病罹患率の高い高齢者の医療費負担は、地元自治体の国保に掛かつてくる。幼少期と高齢期が田舎の分担だ。
大都市は、良いとこ取りではないか。
これを延々と戦後半世紀、集団就職の中学生が金の卵などと持て囃された時代から例年、続けて来たのである。
大都市の今日の繁栄を築き上げ、支へて来た基(もとい)となるべき人材、人的資源(と消費資金)を供給して来たのは、紛れもなく地方の町や村、そしてそこに残つた親たちなのだ。
然し今はもう、供給する余力は無い。地方は疲弊し尽くし、年老いた老父老母たちが、空家だらけの限界集落にしよんぼりと残つてゐる。
首長も職員も良くやつてはゐるが、地方は疲弊し尽くしてゐる。大都市に捧げ尽くし、貢ぎ尽くしたのである。斯かる現実を、不遜なる原告グループや最高裁判事はどれほど認識してゐるのか。