さて、人口で山梨をやや凌駕する世田谷区の行政課題は如何に。区内にどんな産業が有るのか。商店街の振興策なんぞは無用だらう。治山治水事業が有るのか。豊かな住民所得や財政状況、東京都民として共有できる都内のさまざまな医療や文化教育施設、交通機関などの各種インフラなど、政治上の諸元を考慮すれば、その余りの隔絶(公共財享受の不平等も含め)に絶句するしかない。
仮に小選挙区制度であるとして、山梨が県内を3分割して衆議院議員定数3と措定(そてい)すれば、世田谷区も同様、選挙区を3分割して各選挙区の代表たる3名の議員を国会に送り込む必要があるのだらうか。杉並区も渋谷区も新宿区も、以下、東京全区が、域内に夫れ夫れ特殊事情を抱へる27市町村を統括する山梨県と同等であるべきか。
問題はここである。前述した最高裁判決の御託宣「衆院議員は、いずれの地域から選出されたかを問わず、全国民を代表して国政に関与することが要請されている」から、国会議員は一地域の代表ではない。ゆゑに、人口に正比例して選出するのが正義である、新宿選出のガールズ議員が北海道の羆(ひぐま)対策を考へればよいのだと、数の力で押し捲り、単純多数決の採決に付せば、少数派過疎地住民に抗する術はない。政治の重心は圧倒的に都市部に傾き、政治のエネルギーは繁栄地への集約に加速するだらう。
それで良いのか。憲法第14条の一般則は、斯かる拡大解釈の教条的適用が唯一絶対の解か。これこそ本稿の核心の課題である。
統治行為と司法
自衛隊は合憲か否かの訴訟で一時、「統治行為論」なる法理が世上賑はつたものだ。自衛隊は我が国の生死に拘はる重大事である。この自衛隊の存在を、司法の力を以て葬り去らんとした企てが、これに拠つて頓挫した。
「統治行為論」とは一言にして謂へば、司法府が、国家の統治行為をその配下におくのは越権であるとの法理である。
こんなことは、手間暇かけて持つて回つた学説なんぞを調べるには及ばない。健全な常識があれば充分だ。
譬(たと)へば、憲法九条を虚心に読み、現在の自衛隊の戦力を虚心に見れば、これが共存できないことは明らかだ。
では最高裁が、現状に於いて、厳正なる法理(学説)に基づいたと称して、斟酌無用と憲法違反の判決を下し、政府に自衛隊解散を命じたらどうなるか。若しくは、不法の存在たる自衛隊への予算執行の停止とか。慥(たしか)に一往、理屈は通つてゐる。然し、サヨク原告グループが凱歌を挙げるのも一瞬で、直ちに最高裁の驕慢は無惨に砕け散るだらう。
国境海域に危機迫る今この時、そんな寝言を聞いてはゐられない。政府はどうするか。
内閣が緊急声明を発する。
曰く、「国土領海の保全と國民の生命、國民生活の安寧を保持すべき責に任ずる政府として、今次最高裁判決に服すことはできない。自衛隊は引き続き維持し、ここに超法規的措置として当判決を最高裁に差し戻す」。
国家國民が生き延びる手段は、凡そこんなところだらう。これに対して、最高裁に為す術は無い。所詮、「司法」も国家の統治有つてのことなのだ。
「司法の判断」「司法の判断」と、恰もそれが神聖至上、全能の尊いものであるかの如くこれに期待し、国政に拘はる重要事の訴訟が引きも切らないが、斯かる司法至上主義は幼児性の露呈であると、曩(さき)に指摘したところだ。
最高裁判事15名と国会議員722名
さて選挙制度だが、これも「一票の格差」問題を含め、民主政治の基本を成す重大事である。この根本問題について、国権の最高機関たる国会の憲法第47条の規定に基づく議決と、司法の恣意的判断で何れが優越するか。
そもそも、15人の最高裁判事とは何者か。大学法学部の学窓からそのまま法曹一筋の連中である。行政官僚や外務官僚も若干散見するが、何れにせよ、世俗の風や浮世の荒波を知らぬ、閉ざされた、謂はばインナーサークルの出自である。この15人が多数決で、国政の根幹の死命を制しようとしてゐる。即ちそれは、わづか八名の意志で可能なのだ。
一方、国会議員はどうか。衆議院議員の定数480名。参議院議員の定数242名。合はせて722名である。
政治家をぼろくそに云ふのは容易いが、それは天に唾するものである。良かれ悪しかれ、それは現代日本社会の縮図である。各界各層を網羅し、地を這ふ運動の中からのし上がり、衆庶(しゅうしょ)の心を離れて彼らの立場は無い。
職業経歴も千態万様、中には敵国通謀罪常習やら詐欺師と紙一重、銭ゲバ紛ひも散見するが、それもこれも現代社会であり、烈々愛国の士、珠玉の人材にも事欠かぬ。それでなければ国は保たない。インナーサークルの15人なんぞは比すべくもない合議体である。
この特殊職業人15人の多数決を国会の上位に置き、聖なるお告げの如くに持ち回る風潮が彼らを付け上がらせ、政治制度の枠組みにまで容喙(ようかい)させるに至つたのである。