政党はパーティー(部分)であり、政治とは部分利害の調整である
最高裁判事殿はご存じないやうなので教へて進んぜるが、近代民主政治は政党政治を以て営為され、その基礎を成すものは政党であり、政党とはパーティー(part・部分)の謂ひなのだ。これは何も、新来の言葉ではない。古くは聖徳太子さまも仰言つた。
「人みな党(たむら)あり」と。「一に曰く、和を以て貴しと為し、忤(さから)ふこと無きを宗(むね)と為(せ)よ。人皆党有り、亦(また)達(さと)れる者少し」と。「人皆党有」るのは、神代の昔から変はらない。
悪党、一味徒党、一族郎党などと使ふが、「郷党(きょうとう)」もある。政治家は概ね、「郷党」の輿望(よぼう)を担つて国政議場に馳せ参ずる。「郷党の輿望」とは、敢へて偽悪的に云へば地域エゴである。或いはそれは業界のエゴであり、或いは団体のエゴである。
全国からエゴとエゴが集結し、衝突し、争ひ、説得と理解、総合的見地からの妥協と自制、そしてその熱気の中から個々のパーティー(部分)が一つのパーティー、即ち「党」としての方向、政党の所見、政策として集約される。纏(まと)まらぬ政党もある。綱領も決まらぬとか。
何れにせよ、政治とは個々のパーティー(部分)が基礎であり、一足飛びに、最高裁判決の御託宣「衆院議員は、どこの地域の選出かを問はず、全国民を代表して国政に関与することが要請されてゐる」とは、屁も放らぬ青書生の作文で、生きた政治の話ではない。
固より一国の命運への洞察、国家理念、国防、外交、財政への抱負経綸(ほうふけいりん)、歴史観などが、政略人望なども含めて、その資質有りや無しやが最終的にその政治家の地位を決する。安倍晋三が山口県のエゴの固まりである訳はない。然し紛れも無く、「郷党の輿望」を担つてゐる筈だ。
一つの見解(最高裁判決)が国政(立法府)を隴断する危機
冒頭「壱」に於いて既に述べておいたが、憲法は選挙制度について入念に定めてゐる。ここに司法官が介入し、第14条「法の前の平等」の一般則の恣意的解釈に拠り、別条第47条に拠り立法府が制定した法律を否定するのは越権であり、司法官が憲法に一条を加上したに等しいではないかと、既に指摘しておいた。
ここに「恣意的解釈」と述べたのは、当該違憲判決が最高裁大法廷の多数意見に過ぎず、「唯一絶対の解」ではないからである。幅広い解釈の中の一案に過ぎない。
冒頭引用しておいた初期判例に於いて、第十四条の一般則は柔軟な適用を認めてゐる。選挙区割りに於いてのみ俄に厳格な適用を迫るのは異様な一見解であるが、その「異様な一見解」が多数意見として判示されたのは暴走と評してよいだらう。
選挙区の区割りに於ける都道府県別区割りの否定は度外れの暴論で、思い上がりも度が過ぎやう。
憲法第14条一般則の適用は、下世話に謂へば「理屈はどうにでもつく」のであり(9条と自衛隊を見よ)、原理主義的適用はその一つの所見(理屈)、幅広い解釈の中の偏域の一案なのだ。
それにつけても、これまでの政治の無力を思はずにはゐられない。もつと早くから、政治(立法府)の立場からの反論が有つて然るべきであつたのだ。何かと云へば「司法への介入」と言ひ立てるマスコミの批判を恐れるの余り、この裁判への言及に過度に臆病でありすぎた。臆病どころか完黙であり、寧ろ迎合であつたのだ。その怯懦(きょうだ)と不見識が斯かる事態を招いたのである。
2012年3月23日付日経新聞記事によると、自民党の石破茂政調会長(当時)は「一人が二票を持ってはいけないというのは民主主義の絶対原則。格差を二倍以内に収めないと」とコメントしたとあるが、この事案は、選挙区割りと議員定数の関係で、結果として一票の比重にばらつきが生じたのであり、定義に依つて明示的に区分(差別)された或る選挙人団に二票が与へられるやうな形態と同日に論ずるのは筋違ひである。
民主党の岡田克也幹事長(当時)も、「一人別枠方式の廃止を念頭に党内で討議」と積極的だ。揃ひも揃つての不見識には唯、慨嘆するしかない。
高(たか)が最高裁大法廷の暴走的多数意見に、況(ま)してや己が専門である選挙制度に不当に介入されたにも拘はらず、神のお告げかの如くこれに懾伏(しょうふく)する姿は無様である。
保守系言論界も亦、お粗末の極みであつた。
我が国に於ける民主主義の未成熟、若しくは幼児性は「一票の格差」是正の訴訟沙汰に狂奔する原告団に於いてこそ最も顕著に現れてゐると、重ねて指摘しておく。
彼らは、絶対の正義我に有りとの幼稚な思い込みで、お手の物の訴訟を至る所で連発してゐる。衆を頼み、嵩に掛かつて威丈高に押しまくるその姿に、少数派への配慮、自制、惻隠の情は微塵も無い。数に於ける平等こそ正義。多数こそ正義。それしか無い。地方過疎地住民への嗜虐的性向でもあるのか。歪(いびつ)な人間像の典型かも知れぬ。融和と協調、同朋相助け、僻地辺土に至るまで我がはらからの地との思ひは皆無であらう。