次に内モンゴル人民革命党の名前が歴史上に登場するのは、大変な悲劇としてである。1966年に始まり1976年まで続いた世紀の大虐殺、文化大革命においてだ。文化大革命期におけるモンゴル人虐殺は、内モンゴル人民革命党粛清事件とも呼ばれている。
文化大革命は毛沢東による権力奪取のための政治闘争で、死者数は推定で2千万人にも及ぶという大変な犠牲者が出た事件だが、南モンゴルにおいても多くの残虐な犠牲が発生している。中国政府の公式の見解として出ている数字で、当時の人口約150万人のうち、34万6千人が逮捕され、2万7千9百人が殺害され、12万人に身体障害が残るという大量殺戮が行われたとされている。
モンゴル人学者の中には、重い身体障害のために後に亡くなった人々も含め、あわせて30万人が殺されたという説もある。まさにジェノサイドが行われたのだ。この文化大革命におけるモンゴル人虐殺において、中国側がその根拠としたのが、内モンゴル人民革命党だ。毛沢東はソ連の影に怯えていた。南モンゴルの独立主義者が北のモンゴルと共同し、さらに北のモンゴルの背後にいるソ連の介入を呼び込もうとしているとの疑念に駆られていたのだ。
「内外モンゴルの統一を画策し、ソ連の介入を呼び込もうとしている国家分裂主義者」である内モンゴル人民革命党の地下活動家を摘発するという名目で、モンゴル人への徹底的な弾圧が行われた。しかし実際に行われた虐殺の規模から見て明らかなように、これは口実にすぎず、単にモンゴル人であるというだけで殺された民族大量虐殺以外の何物でもなかった。
テムチルト主席解任劇
1980年代に入り、南モンゴルではモンゴル人の権利擁護を訴える学生運動が起こる。内モンゴル大学や内モンゴル師範大学などの学生たちが、内モンゴル人民革命党粛清事件(文化大革命)の犠牲者の名誉回復と自治権確立を目指して活動した。この時代に内モンゴル人民革命党の地下党員となって現地で活動していた主要な人物は、1981年の学生運動の指導者の一人であり最近米国に到着した反体制作家ナランビリグ氏、著名な反体制作家で2011年にアメリカに亡命したトゥメンウルジー・ボヤンメンド氏、現在の内モンゴル人民党代表であり日本在住のケレイト・フビスガルト氏などだ。単に学生運動に加わるのみならず、内モンゴル人民革命党の地下党員となることにはそれだけのリスクが伴うのだが、当時現地で加わり、現在は国外に出るなどしてそのことを明らかにしている人々には上記のようなメンバーがいる。
そして、1997年、アメリカのニュージャージー州プリンストンにおいて、内モンゴル人民革命党を継承するとして、内モンゴル人民党が結成された。本稿の冒頭で述べた通り、この内モンゴル人民党の党旗が、現在南モンゴル運動のシンボルとして誰もが認めている旗である。この時初代主席に就任したのは学生運動の指導者の一人であり、ドイツに亡命した後に内モンゴル人民革命党に参加したショブチョード・テムチルト氏(席海明)だ。
しかし、テムチルト主席は、2015年3月1日、オンラインによって緊急開催された執行委員会によって主席の職を解任された。執行委員6人の内、テムチルト本人を除く残り5人全員が解任に票を投じた。この解任劇は現在も続く政治問題であるので、個人の事情に類することはここでは述べず、政治問題に絞って解説する。

内モンゴル人民党 代表 ケレイト・フビスガルト氏