今も続く問題の構図
この時モンゴルでは何が起きていたのか。辛亥革命に並行して、力を失った清からの独立を目指すモンゴル人たちは、まずいわゆる外モンゴル(現在のモンゴル国の領域を指す)においてボグド・ハン政権を樹立して独立を宣言する。さらに1913年には、同じく清からの独立を目指していたチベットとの間で、相互承認条約を締結してもいる。
この動きの意味するところは重要だ。実は現在にも続く問題の構図が存在している。つまり、清王朝とは満州人が建国し、中国人(漢民族)を征服し、さらにチベット人、ウイグル人、モンゴル人など周辺諸民族をも支配下に収めた巨大な帝国だった。その清王朝が漢民族による辛亥革命で倒れて中華民国が建国されたときに、中華民国は清王朝の領域をそのまま全て支配することを望んだわけである。しかし、チベット人もモンゴル人も、清王朝が倒れた以上、そのまま新しい中華民国に従わなければならない所以は存在しない。当然にしてそれぞれが独立を目指して動き出すことになる。現在の中華人民共和国と諸民族との関係も同じだ。問題は実はここからずっと同じ構図で続いている。
100年に及ぶ苦難の独立闘争がはじまった
さて、外モンゴルで成立したボグド・ハン政権はロシア帝国の力を後ろ盾にしていたが、1917年にロシア革命が起きてロシアそのものが混乱に陥る。その後様々な戦乱を経て、最終的には、ソ連の支援を得て1924年に世界で2番目の社会主義国としてモンゴル人民共和国が成立する。現在のモンゴル共和国の前身だ。ソ連の衛星国としてではあるが、モンゴル人はモンゴルの北半分において一応の独立を達成した。
では、モンゴルの南半分、南モンゴル(いわゆる内モンゴル)はどうだったか。外モンゴルにおけるボグド・ハン政権の成立とその後の戦い、さらに最終的にソ連の支援のもとにモンゴル人民共和国として独立を達成したことに刺激を受け、南モンゴルでも当然独立を求める運動が起きていく。そしてその非常に重要な基点として、1925年10月13日、カルガン(張家口)において、内モンゴル人民革命党が結成される。この結成大会には、モンゴル人民共和国のモンゴル人民革命党から代表の参加もあった他、現在はロシア連邦に含まれているブリヤート・モンゴルのモンゴル人の代表、さらにソ連・コミンテルンの代表、中国国民党、中国共産党を代表する参加者もあった。内モンゴル人民革命党の結成が如何に重要な位置付けだったかがわかる。まさにここから、現在まで続く100年に及ぶ中国からの苦難の独立闘争がはじまったのだ。