百人町教会の牧師と成田闘争
この日本基督教団と仁藤は、ある人物を介して非常に近い関係にある。その人物の名は、阿蘇敏文という。日本基督教団のホームページによると、清津府(朝鮮)に生まれ、百人町教会(旧大久保集会)の牧師で、2010年に亡くなっている。
仁藤は、高校中退後、大手予備校の高等学校卒業程度認定試験コースに通い、そこで予備校講師を務める阿蘇と出会う。そして、その思想や活動に共鳴していった。
阿蘇は、学生運動・三里塚闘争(成田闘争)に加わった活動家の一面を持っていた。
成田闘争については、警察庁が2004年に出版した『焦点』第269号に、こう記されている。
《昭和41年7月、新東京国際空港(以下「成田空港」という。)の建設予定地が千葉県成田市三里塚に閣議決定されたことを受け、地元農民を中心にして「三里塚芝山連合空港反対同盟」(以下「反対同盟」という。)が結成され、空港建設反対運動(いわゆる成田闘争)が開始されました。当初は、農民が農地を守るというものでしたが、翌42年9月に過激派が介入したことにより、成田闘争は長期かつ過激な闘争へと転化しました。
過激派のねらいは、成田空港を「日帝の海外侵略基地」、「軍事空港」等ととらえ、「70年安保闘争」で盛り上がりをみせた武装闘争を引き継ぐために、成田を「革命の砦」と位置付け、過激な闘争を展開し、我が国を革命情勢に引き込むことにあります。
闘争に介入した過激派は(略)大量の火炎びんや石塊を警察部隊に投げ込んだり、竹槍、鉄パイプ等を使用した大規模な武装闘争を展開しました。(略)これまでに過激派の「テロ、ゲリラ」により、民間人等6人、警察官4人が殺害されたほか、多くの人が被害を受けています》
1978年に阿蘇が百人町教会(旧大久保集会)の機関紙に寄稿した文章にはこう記されている。
《大久保集会が、反天皇制、反権力の戦いを方針とする限り、三里塚の問題は避けて通れる問題では決してない。何故なら、三里塚の闘いは、日本にある全ての戦いの象徴であり、最大の鮮明な敵だからである》
また、阿蘇は、2005年に出版した著書『現場からの道』に《私は三里塚闘争を通して「過激派」といわれる人々とも出会ったが、彼らの真摯な姿勢には頭が下がる思いをした》と記している。
「百人町事件」とヘイトスピーチ解消法
阿蘇が活動を展開した「百人町」は、公安関係者の間では、「百人町事件」の舞台として、良く知られた地名だ。百人町事件については、警察庁が2005年に出版した『焦点』第271号に以下の記述がある。
《工作員として獲得された在日朝鮮人と日本人が、北朝鮮でスパイ訓練を受けた後、日本等で韓国人に対する獲得工作及び財政工作を行っていたスパイ事件です。(略)警視庁は、2000年(12年)11月21日、Aを詐欺で、Bを電磁的公正証書原本不実記録等で検挙しました》
2016年7月3日の産経新聞「加藤達也の虎穴に入らずんば」というコラムには、Aと記されている康成輝についてこう記されている。
《摘発当時、関係先から大量の資料が押収されたが、公安部の目を引いたのは昭和49年7月下旬に康が北朝鮮で受けた教育内容だった。そこには日本を「敵地」として工作の目標や公安当局の監視を免れるための注意点が記されていた。
康は東京・新宿のキリスト教会を隠れみのに北朝鮮の命を受け、韓国で親北朝鮮ムードを醸成する工作をしていたが、日本国内でも政治・経済界への浸透工作を進めていた。取材時、筆者は「工作対象は、どのような人か」と尋ねてみた。康が挙げた中に鳩山元首相の名前があった》
なお、この事件を言及するにあたり、併せて述べなければならないことがある。
2016年に「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(ヘイトスピーチ解消法)が施行された。この法に規定するように、本邦外出身者又はその子孫に対して不当な差別的言動がなされることは許されない。また、法成立時の付帯決議にあるように、差別意識を助長し又は誘発する目的で行われる排他的言動も決してあってはならない。
しかし、その点に過敏になるあまり、国家の安全を犯しかねない活動についての告発を委縮するようなことがあっていいのか。
康成輝を逮捕した元警視庁公安部外事二課警部によると、康は日本において「包摂活動」(本邦外出身者を共産圏側に抱き込む活動)を行い、北朝鮮に家族がいる者を半ば脅して協力させるなどの工作もしていたという。「ヘイト」を怒れて、これらを見逃すことがあってはならない。