隠然たる潮流有りや無しや
新聞、テレビなど凡ゆるメディアが「格差」批判一色の異様な情景を呈してゐるが、これを遠慮勝ちに疑問視する声なら、先般、わづかに聞くことを得た。
一人はテレビの6チャンネル「朝ズバ」と云ふ番組だつたと思ふが、元特捜検事の若狭勝氏が、この「一票の格差」判決が話題になつた時、法曹家としてはこれに遵(したが)ふしかないが、一國民としては、地方の過疎地への配慮は有つてもよいと思ふと、一言だけ控へ目に異見を述べてゐた。「法曹家こそ異見を述べるべし」、とするのが私見であるが、元特捜検事氏のそれは、洵(まこと)に遠慮がちな独語であつた。
もう一人は、立命館大学教授の加地伸行氏である。産経新聞の2012年12月20日付の「古典個展」と題する所論で、「都市と地方 寄り添うべし」として、「人口基準という、単純な子供向きの多数決絶対の民主主義は(略)法律教条主義に基づく主張であり、それと生きた政治は別なのである。最高裁判決どおりに議員定数を是正すると、地方はえらい目に逢うことであろう」として、漢学者らしく後漢書を引用してをられた。「小人法制を用うれば乱に至る」(仲長統伝)と。
わづか二例だが、控へ目であれ表面に出た二例があれば、その背後にこれに同ずる隠然たる潮流があると見てよいだらう。
原告に正義はない
もう20年前か30年前か記憶も定かでないが、この問題の余りの喧噪、一方的なマスコミ論調に悲憤慷慨遣る方なく、一往著名な幾つかの新聞雑誌、6、7社に投書を送り付けてみたことがある。
小生の文章はおよそ投書欄向きでないことは百も承知だが、それでも一つくらゐは引つ掛かるかと僅かな期待も空しく、見事に全部ボツであつた。と思つたところ、忘れたころになつて一つだけ採用になつた。どの媒体であつたか、これも記憶にないのだが……。
「……若しアメリカ上院の制度に倣ひ、参議院制度に断乎たる斧鉞を加へ、各都道府県三名の定数として構成したとすれば、衆参両院で七百余人の國民代表が協議して議決したこの制度を、わづか15人の裁判官が違憲だから許されぬとして廃棄を命じ得るのか」と記述しておいたのだが、この「断乎たる斧鉞を加へ」の所が「大改革して」と修文されてゐたので、投書欄担当記者がやりさうな事だと苦笑し、それでもまあ採用しただけ益しかと記憶に残つた次第で、その後今日まで、前記ご両所の所感に逢ふまで反対論に寓目したことはない。
然し、表に現れぬ潮流として、この「一票の格差」弾劾の声高な威圧的論調への反感は、声なき声、声に出せぬ声として、必ずある筈である。なぜ声に出せぬのか。なぜその声が控へめなのか。世人一般に、正義は彼ら原告側に在りとの思ひ込みがあるからであらう。然し、彼らに正義はない。本稿はそれを論証してゐる。