2度目は、私の師匠同様の手塚治虫さんにかかわる取材だった。朝日の女性記者から連絡を受けて、尊敬する手塚治虫さんの事績をあらためて顕彰して欲しいと考え、2つ返事で引き受けた。
1989年2月9日、手塚さんの訃報に接し、仕事が手に着かなくなった。もちろん、自分に対する言い訳でしかないが、手塚さんの冥福を祈って、四国八十八カ所の札所巡りに出かけたほどである。
私は、日本アニメのオリジナル脚本家の第1号である。SF小説の仕事が軌道に乗る前、創成期のアニメ業界に身をおいていた。オリジナル脚本とは何かというと、原作にない物語のシナリオである。
テレビは、毎週1本のストーリーを必要とする。原作だけではまかないきれない。そこで、『鉄腕アトム』を使ったオリジナルの脚本が必要となってくる。手塚さんは、私が書くシナリオをおおいに気に入ってくれたのだが、丸投げのように任せてくれるわけではない。
細部に至るまで、手塚治虫が書いたように仕上がっていないと、気が済まない。あれこれ注文がつくので、打ち合わせのため、3日にあげずに手塚さんと会っている毎日だった。いま思えば、横綱の胸を借りるような幸せな毎日だった。
手塚治虫の特集ということなので、私は、いかに偉大なクリエイターだったかを、あれこれエピソードを交えて話し続けたのだが、相手の朝日記者は、メモすら取ろうとしない。仕事の合間に、手塚治虫が、原子力についてどう語ったかというような質問が向けられた。
仕事の打ち合わせは、アイデア、ストーリーに関するものであり、たまには雑談もするが、原子力の話など出たことはない。そう答えると、朝日記者はがっかりしたようだった。手塚治虫が、原発反対という思想を早くから持っていたという構成にしたかったからなのだろう。
手塚治虫が反原発の教祖に
そもそも、アトムという名からも判るように、アトムは原子力を動力としている。『鉄腕アトム』の原型となる『アトム大使』が発表されたのは、1951年である。
テレビ版アトムは1963年に放映開始、私が参加したのは、おおよそ原作を使い果たした翌年からである。もちろん、商業用原子炉も存在しないし、話題に上ることもない時代だった。もしかしたら、広い日本のどこかには、将来を見通して原子力反対という人がいたかもしれないが、科学の未来が信じられていたから、まず反対という人はほとんどいなかったろう。
70年の大阪万博では、手塚さんに誘われ、私も、さるパンメーカーのロボット館のアイデアコンセプトを担当した。この時だって、会場では関電の美浜原発から送電を受けていることを誇らしげにアナウンスしていた。そのときも、手塚さんの口から、原発反対に類する言葉は一度も出なかった。
原発反対に傾くのは、『ガラスの地球を救え』など、晩年になってからである。スリーマイル島、チェルノブイリなどの事故を経て、手塚さんは心を痛めていた。もともと自省的な人だから、アトムで原発推進に手を貸したような気分にいたったのである。
晩年、手塚さんは、アニメの商業化でも自戒の弁を残している。日本アニメの商標化(マーチャンダイズ)権(二次著作権)、つまりキャラクター使用は、本格的には『鉄腕アトム』に始まる。そのことを反省しておられたのだが、これは当たらない。アトムという優れた作品があり、そこに商品化の引き合いが殺到したということである。最近のアニメのように、はじめから玩具を売ることが目的で金儲けに走ったわけではないからだ。
結局、手塚さんは反原発の教祖のような扱いになってしまった。長年の付き合いで、人となりも判っているつもりなのだが、手塚治虫という人は、大上段に振りかぶって教えを説くというような人ではない。中編アニメ『ある街角の物語』では、穏やかな抒情的な映像ながら、心から反戦平和を訴えている。
朝日が報じた『宇宙戦艦ヤマト』の嘘
そして3度目は『宇宙戦艦ヤマト』である。松本零士の原作があって始まった企画ではない。プロデューサーの西崎義展さんから頼まれ、私のSF設定に、松本さんが手を加えて実現したのである。戦艦大和を使おうとしたのは松本さんだし、人物設定も松本さんだから、おおよそ松本零士原作というのが正しい。私は、テレビ版、劇場版など、初期10作品のSF設定すべてを担当した。
まず、私のSF設定をたたき台として企画が進行した。当時、大阪万博のあと、「人類の進歩と調和」というスローガンが、折からの公害問題の浮上とともに批判されるようになり、原子力が俄かに悪役に仕立てられ、ノストラダムスに代表される終末論が流行り始めた。
また、安易に科学の未来を売りまくった未来学者やSF作家は、けしからん式の批判が浴びせられるようになった。マスコミの手のひら返したような対応に憤っていたのは、私だけではない。
究極の公害、終末という世界を、マスコミの要望どおり描いてやろうではないかという気分にさせられ、小松左京は『日本沈没』を書いた。ヤマトの設定も、こうした時代相を反映したものである。
異星人による侵略で、放射能に汚染された地球、そして放射能除去装置を取りに行く。これらSF設定の骨子は、私の最初の設定案に基づいている。私は、朝日記者の取材に答えて、こうした経緯を喋った。
ところが、2015年2月25日から夕刊で始まった「ヤマトをたどって」というシリーズでいざ記事になってみると、私が語った部分はまったく反映されていない。それどころか、朝日が創った経緯が、まことしやかに書かれている。
『宇宙戦艦ヤマト』は、第二次世界大戦末期の日本とのダブルイメージのように解釈されている。そこから反戦平和という方向へ、強引に持っていこうという趣向なのである。
企画の段階でも、制作の段階でも、そんな意図は皆無だった。ヤマトは、日本最初の本格的な宇宙SFアニメである。もともとの設定は、究極の公害という発想から、エイリアンによる侵略をエンターテイメントに仕上げたつもりである。ガミラス帝国の重囲をくぐってイスカンダル星へ行くわけだから、戦闘場面は欠かせない。多くの戦記、戦史などを参考にしている。たとえば、次元潜航艇という兵器が登場するが、Uボートから外挿(extrapolate)したものである。
さっそく抗議すると、こういう返事が戻ってきた。
「先生の意見は採用しませんでしたから、インタビュー料は発生しません」
私の意見ではない。松本零士に訊いてもらえば判るが、私のSF設定からスタートした企画である。しかし、松本零士にも取材していないらしいのだ。しかも言うに事欠いて、インタビュー料は発生しないとは何事か。ミジンコではあるまいし、「発生しない」とは無礼極まりない。
私が激怒しているとみて、金欲しさと誤解したのだろう、1万円、送ってきた。きょう日、電話インタビューでも、もっとましな報酬を払う。朝日帝王は、人気があるとみてとるや、『宇宙戦艦ヤマト』のようなアニメすら、朝日カラーのイデオロギー傘下に置こうと思い立ったのだろう。