〈今まで1人も死者を出していない原子力発電所ほど安全なエネルギーはほかにはないと思う。TMI(スリーマイル島)事故でも、あれだけの人為的なミスが重なったにもかかわらず、なお1人の死者も出なかった。絶対に安全、ということはありえないけれども、これから我々が頼るエネルギー源としての資格があることを証明したのじゃないかと思う(『日本経済新聞』79・8・20 政府広報「座談会 代替エネルギーの担い手 原子力発電」)〉
事前の取材は、いっさいなかった。つまり原発推進派は、反対する人々を未開人と罵るような粗暴な人間ばかりだ、という印象を与えようとしたわけだ。もしかしたら、その10人の識者なる人々のなかに、そうした発言をした人間がいたのかもしれない。しかし私に限っては、そういうことを書いたり言ったりしたことは一度もない。
私の原発体験は、商業炉が一基も稼働していない頃、東海村の研究用原子炉JRR─3を、日本SF作家クラブで見学したことから始まった。本業のSFに登場する未来エネルギーとして興味をもったので、その後も日本中を回り、すべての原発サイトを訪れた。
また、関連施設もほとんど取材し、さらに建設予定地は、たとえば能登半島の珠洲市、四国の窪川町など、建設中止になった地点も含めて、すべて訪れている。
口はばったい表現になるが、70~80年代の原発のPA(パブリック・アクセプタンス=地域住民の容認のこと)研究においては、私の右に出る者はいなかったと断言できる。そんな酔狂なことをする人間は、他にいなかったろう。
私は常々、立地点の住民の反対は尊重すべきだ、と書いたり言ったりしてきた。また私は、原発に反対する自由のない国は原発を建設すべきではない、と主張してきた。私ごとが続くが、反対派の大立者、故・高木仁三郎は私の中学の同級生で、同じ大学の理科II類に合格したところまでは同じ道を辿った。
私とは意見が異なるが、万一、高木が反対意見を発表できないような事態になれば、断固として高木の言論の自由を守ると、これまた書いたり言ったりしてきている。
筑紫哲也氏のお粗末な再反論
私は、雑誌『諸君!』のページを借りて、さっそく反論を書いた(「拝啓朝日ジャーナル殿」1986年7月号)。反論の骨子は、「私が反対派を未開人と罵った」とする根拠をあげてくれということに尽きる。そんな根拠など見つかるはずがない。つまり朝日としては、原発などに推進めいた妄言を吐くようなけしからん奴を、一網打尽に弾劾しようとしたわけだろう。
無冠の帝王である朝日に対する皮肉をこめて、十把一絡げに非国民が10人必要になり、私の名も員数合わせのため、それに加えられたに違いないと書いた。
たしかに筑紫氏は、反論してくれた(「拝復 豊田有恒殿──朝日ジャーナルからの返信」 『諸君!』1986年8月号)。私も、原子力の是非について討論したいと考えたから、もっと建設的な意見でも出るかと期待したのだが、筑紫氏の反論は
〈非国民も国賊もお国の方針に刃向かうものに投げつけられてきたことばです〉