ライオンの脱走
2016年4月14日、熊本地震が発生した直後午後9時52分、SNS上に、「熊本市動植物園からライオンが逃げ出した」という画像付きの投稿がされた。夜の街の路上で、街灯に照らされたライオンが写る画像だった。
大地震の被害状況がまだ明らかにされず、市民の不安が高まっていた時期に投稿されたこの画像は瞬く間に拡散し、リツイート(転載)は1時間で2万件を超えた。熊本市動植物園には「本当にライオンが逃げたのか」という問い合わせの電話が殺到し、職員は業務への対応に追われた。園側は「ライオンは檻に収容されており、逃げていない」と繰り返し否定したが、偽情報の拡散速度があまりに早く、否定情報が追いつかない状況が続いた。
やがて報道機関やネットメディアが画像の出どころを検証し、実際には南アフリカ・ヨハネスブルク で撮影された野生のライオンが街なかに現れた時の写真であることを突き止め、熊本地震とはまったく関係のない誤情報であると確定した。
その後、熊本県警は偽計業務妨害の疑いで、当時20歳の男性を逮捕した。男性は「注目を集めたかった」と供述したとされるが、最終的には不起訴処分(起訴猶予)となった。
これは、ニセ画像が人々に不安や混乱をもたらし、ついには警察沙汰にまで発展したという点で現代における教訓的な事件である。実在する写真を、巧妙に場所と時間をすり替えて説明するだけで、多くの人々が容易に騙されてしまった。「百聞は一見に如かず」の諺のとおり、目に見える映像は、言葉よりもはるかに説得力があり、信憑性を高めてしまう。この事件でも、文字だけで「ライオンが逃げた」と投稿しても、ほとんど拡散することはなかっただろう。
ネット上では、他人の顔写真を自分のプロフィール写真だと偽るというような行為が横行している。こうした単純な手法でも騙される人はあとを絶たないが、最近ではより高度な手法も表れている。生成AIを駆使して、既存の写真を改ざんしたり、あるいは存在しない人物や物、場面の画像をねつ造することまでできるようになったのだ。こうしたフェイク画像やフェイク動画は、「逃げたライオン」のように元になった実在の写真がそもそも存在しないため、偽物かどうかの判定はより難しくなる。
AIが本格的に利用される時代を迎えて、フェイク画像はより深刻な問題となっていると言えるだろう。
100年以上前に世界を騒がせた「フェイク画像事件」
じつは今から100年以上前にも、世界を騒がせた同様のフェイク画像事件があった。有名な「コティングリーの妖精事件」である。
1917年、イングランドのコティングリー村で、エルシー・ライト(13)と従妹フランシス・グリフィス(10)という二人の少女が妖精と遊ぶ写真を撮影したと主張した。
はじめ写真は2枚撮られた。①ほおづえをつくフランシスの前で背中に羽の生えた四人の妖精が躍っている様子を写した写真と、②草地に腰掛けるエルシーのひざに乗りかかろうとする、とんがり帽子をかぶり笛をもったノーム(地中に住み、鉱物や宝石を守る存在と言い伝えられている妖精の一種)の写真である。
2年後には、③横を向いたフランシスの顔の前を飛んでいる妖精、④エルシーに花束を差し出す妖精、⑤草むらのなか3~4人の妖精が日光浴をしている場面の写真が撮られた。
これら計5枚の写真は、当時、「写真は真実を写す」と信じられていたため、村の住民たちを大いに驚かせた。もともと、この村では古くから「妖精が住んでいる」との伝承があったことから、写真の信憑性を後押しした。
しかし、小さな村の「不思議な話」の一つに過ぎなかったこの事件を、一挙に世界に広めたのが、『シャーロック・ホームズ』の作者として有名なアーサー・コナン・ドイル(1859~1930年)であった。
写真①『妖精の到来〜コティングリー村の事件 』(ナイトランド叢書)より

