朝日の「後世への最大汚物」
第3に、《小川氏は大半について「私の『表現』か『意見言明』への苦情に過ぎません」などとして応じませんでした》と書いてあるが、これまた悪質な歪曲だ。 私は「訂正要求」には「応じ」ていないが、朝日の訂正要求のどこがどう間違っているかを、朝日の「求め」に「応じ」て丁寧で具体的に回答している。
朝日新聞は、《小川氏は~応じませんでした》という主─述を用いることで、私が申入書に丁寧に回答した事実を故意に隠蔽し、私が不誠実な対応をしたかのような印象を読者に与えている。何しろ、見出しが「根拠なく誹謗・中傷」なのである。 最後の一節に至っては、朝日新聞の「後世への最大汚物」であろう。
簡単に時系列を記せば、こういうことになる。
まず、朝日新聞が森友・加計の一連の報道を、2017年2月から7月まで熱狂的に繰り広げた。
次に、私がそれをドキュメンタリーとして、10月22日付で『徹底検証「森友・加計事件」朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』と題し、飛鳥新社から出版した。
その著書に対して、11月21日に朝日新聞社から厳重抗議の申入書が来た。 それに対して、私は12月5日、朝日新聞に回答し、裁判ではなく公開討論や検証などを通じ、言論で黒白をつけようと提言した。
この応酬の連鎖こそが、千葉氏が言うところの《建設的な言論空間》ではないのか。 朝日新聞が本当に《建設的な言論空間を維持・発展》させたいならば、まさに私の丁寧な回答に、同じように丁寧に回答すべきではなかったのか。
私の朝日への回答は『月刊Hanada』2018年2月号を参照いただきたいが、それを読んだ多くの第三者から「完全論破」という評価を受けている。第三者の多くがそう感じる「回答」を出されたら、朝日新聞が次にすべきは、それをひっくり返し、あくまでも小川の著書が「事実に反した誹謗・中傷」であるという説得力のある逆「完全論破」をすることでしかなかったのではないか。
そうした応酬のプロセスを決して踏み外さないこと、このプロセスから逃げないこと、あくまでも「言葉のチカラ」によって自己の正しさを自ら論証してゆくことこそが、「建設的な言論空間を維持・発展」することではないのか。
ところが朝日新聞は、1.最初の申入書で「賠償請求」の恫喝をした挙句、2.それへの私の回答に再反論せず、3.私からの公開討論や紙上検証の提案を黙殺し、4.私の回答を紙面から隠し、5.私が根拠ない中傷本を書いたと紙面で決めつけ、6.極めて薄弱な摘示事実をもとに、飛鳥新社と私相手に5000万円の訴訟を起こした。
書きながらめまいがする。
これこそが、完膚なきまでに《言論の自由の限度を超えた》《建設的な言論空間》の一方的な破壊でなくて何なのか。
森友・加計報道は社会事件
特に重大なことを指摘しておきたい。 そもそも朝日の森友・加計報道は、裁判所で、朝日が出してきた摘示事実の如き細かい表現部分を争うことでごまかしていい話ではないということだ。
これは、法廷で朝日の設定した論点を争うべき主題ではなく、日本社会の「天下の公論」という広い裁きの庭において、国民環視のなかで黒白をつけるべき朝日による社会事件なのである。
森友・加計報道は、私が拙著で主張するような、朝日新聞による「安倍疑惑」の捏造だったのか、それとも朝日新聞の捏造という私の主張のほうこそ誤りだったのか──大枠の構造としての「安倍疑惑捏造」の有無を問うべきは、東京地裁に対してではなく、日本国民に対してである。
なぜか。
朝日が近年お気に入りの「立憲主義」という言葉があるが、このたびの朝日新聞の森友・加計報道は、まさに、立憲主義を揺るがす憲法マターだったからだ。
日本国憲法は国民主権を謳っている。国民主権を現実の政治過程に反映させる核心部分は言うまでもなく、選挙を通じて代表者を選び、国民の信任を受けた彼らによって政府を構成することにある。
朝日新聞が主導して報じ続けた森友・加計事件で、安倍政権の支持率は一時期、平均30%前後まで下がった。 朝日が訴状で言うように、たしかに厳密な意味では、朝日新聞は安倍首相の両事件への関与を一度も報じたことがない。なぜか。たしかな物証が1つも存在しなかったからだ。それなのに、「安倍首相」「昭恵氏」「安倍政権」という見出しを中心に、この件を650もの記事で報じ続けた結果、安倍政権の支持率が大きく下落した。
それならば、朝日の行為は、たしかな物証の全く存在しない=架空の疑惑記事によって、主権者の判断を大きく捻じ曲げたことになるではないか。
支持率を30%下げたとは、もし当初の数字が、日本の政権支持率の平均値である30%台後半だったら、政権が潰れていたことを意味する。もし朝日が、今更訴状で《安倍首相の関与を報じたこともない》と逃げるほど、関与が今日に至るも証明できない件で、長期にわたり650件の記事を書いて政権を潰す結果になっていたら、これこそデモクラシーの否定そのものだ。
立憲的に正当な手続きを踏んで選ばれた政権を、国民に大きな誤解を与える情報を長期間執拗に流し続けて倒す──これは、国民主権を根底から踏み躙る立憲破壊行為にほかならぬ。
ある政権に対してYESかNOかというのは、根本的な主権行使判断だからである。
朝日新聞は裁判に逃げず、裁判と同時に、自らこの争点について弁明しなければならない。
すなわち朝日は、「安倍疑惑」を見出しで創作したとの私の主張を全面的に否定証明するか、安倍疑惑を創作し、憲法破壊という根底的な国家犯罪を犯したことを国民の前に広く認めて廃業するかしか、道は残されていない。
この重大性を理解しているからこそ、朝日は名誉毀損裁判に逃げたのである。
名誉毀損裁判は、私が争い、判決が下れば、ソクラテスに倣って毒杯でも何でも仰ごうではないか。
しかし日本国民よ、あなたがたは私の裁判の帰趨と関係なく、朝日による憲法破壊が実際にあったかなかったか、私の主張が正しいか間違っているかを、ぜひ社会で決着してほしい。(つづく)