学術会議は、第二次大戦後、日本がまだ連合国軍総司令部(GHQ)の統治下にあった1949年に設置された。当時のGHQの何よりの使命は、日本を二度と戦争のできない国にすること、すなわち安全保障面における日本弱体化であり、学術会議にもその一端を担うことが期待された。
GHQの意向に沿い、学術会議はまず1950年に、「戦争を目的とする科学研究には絶対従わない決意の表明(声明)」なる文書を発表している。
「われわれは、文化国家の建設者として、はたまた世界平和の使として…科学者としての節操を守るためにも」云々の大仰な文章には文化の香りや節操がみじんも感じられないが、ともあれ、こうした学術会議の「自虐的平和主義」体質は、日本が占領期を終え独立したあとも変わらなかった。それどころか、現実とのズレをむしろ拡大させてきた。
明らかな「学問の自由」の侵害
1967年に学術会議は、同趣旨だがタイトルの「戦争」を「軍事」に変えた「軍事目的のための科学研究を行なわない声明」を出している。ここで注意すべきは、戦争と軍事が代替可能な言葉として使われている点である。1950年の第一次声明では「敵」はあくまで「戦争」であったが、1967年の第二次声明では「軍事」全般が敵視されるに至っている。
すなわち、敵対勢力の侵略を抑止し、戦争の発生を未然に防ぐには一定の軍事力が必要という、国際政治の常識中の常識を捨て去ると宣言したに等しい。
この一事を見ても、学術会議が当事者らが主張するような「学問」的真理を希求する純粋な「学者」集団ではなく、「戦後レジーム」を護持せんとする政治的磁気を濃厚に帯びた存在であることが分かる。
そして、2017年3月には、第三次の「軍事的安全保障研究に関する声明」を出し、「上記二つの声明を継承する」としたうえで、規制対象を「軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究」にまで広げた。
先端的な研究であればあるほど、軍事にも民生にも応用されうる。将来どの分野にどう活用されるかは、当の研究者にも予想がつかない。
「見なされる可能性のある」となれば、防衛省や自衛隊が関心を持ついかなる研究も、学術会議の圧力を通じて中止に追い込まれかねない。明らかに「学問の自由」の侵害だろう。