この先どうなるのか、どんな危害が及ぶのか予想できない
これは私の選択だ (南モンゴルの兄弟たちへ)
ムンヘバヤル・チョローンドルジ
私はこの選択を1984年、15歳の時にしたのだ。自分と従弟2人のクラスメイトを集めて「南モンゴル解放民族戦線」という地下グループを設立した。その目的を 「キャフタ条約(注:キャフタ条約は、1915年に、ロシア帝国、モンゴル《ボグド・ハーン政権》、中華民国との間で締結された条約である。モンゴルは中国を宗主国として認めた)の不平等を解消し、大モンゴル国を回復する活動を行う」とした。私たちは未熟ながらも、会則・基本計画・会議のルールなどを作って暗号で記した。南モンゴルについて学び、わが国(モンゴル人民共和国)の国民に南モンゴルのモンゴル人について知ってもらうための行動計画も作成した。
私たちのことを(わが国の)内務省が知っていたら、どうなっていただろうか。私自身は間違いなく身柄を拘束されていただろう。南モンゴルのモンゴル人のために活動していた当時から拘束される可能性のあった私は、38年後、53歳になって「外国のスパイ」という誹謗中傷を受け「8~15年は覚悟しろよ」と脅され、刑務所に収容された。この先どうなるのか、どんな危害が及ぶのか予想できない。本来なら一審で釈放される条件を満たしていたのだが……。
見せかけの民主主義
わずか15歳で共産主義政権の刑務所に収容されていたら大変だったとは思うものの、見せかけの民主主義、いっそう赤化した「共産主義」体制の刑務所は53歳の私にはどんな風であるのだろうか。15歳で投獄されたとしても何とか乗り越えただろうが、その後の運命がどうなっていたかは想像できない。当時の私は「自分が正しいと思ってしたことで将来何が起こっても関係ない、命をかけて闘うべきだ」という強い思いをもった「若き親衛隊」の模範だった。
幸い、モンゴル国でもペレストロイカ・グラスノスチが実施され、南モンゴルについて自由に語れるようになった。1990年わが国では民主主義革命が勝利し、それを隠す必要もなくなったのである。南モンゴルの政治亡命者が私たちと自由に連絡を取って話し合うことができるようになった。
1991年「デムチュクドンロブ(徳王)協会」という南モンゴルのモンゴル人を支援するグループを同志らと設立した。1990年代には南モンゴルのモンゴル人の人権を支援する活動は先鋭化していった。
私は1990年代、モンゴル民族の統一や民族主義について文章をたくさん書き、民族主義を広める活動をずっと続けていた。2000年代にはモンゴル民族が置かれた状況を改善する提案を政府にし、政策にも反映させた。その一例として「帰化法」を挙げることができる。これは、在外モンゴル人がモンゴル国に自由に定住し、モンゴル国民と同様の権利を得ることができるという法律である。