年表②
養子にすることを強要!
だが、その直後、運命は風雲急を告げる。和英氏・美和氏がロンドンにやって来ることになったのだ。大輔さんは驚きつつも、前向きに捉えることにした。
「この出産をきっかけに、ファミリーが一体となれるかもしれない」
ところが、そうした淡い期待は無残にも踏みにじられてしまうことになった。
息子が生まれて4日後、K常務を従えて産後ケア施設に現れた和英氏・美和氏。2人は孫の顔を見るのもそこそこに、書類を広げ、大輔さんに迫った。
「産まれてきた子どものことだけど、先ずはこの書類にサインをしろ」
書類は「養子縁組届出書」。養父母の欄には、和英氏と美和氏の名前がすでに記されていた。つまり、生後間もない息子を祖父母である和英氏・美和氏の養子にすることを、大輔さん・聖子さんに強要したのだ。
大輔さんは面食らった。それでも、覚悟も決めてこう言った。
「妻はまだ出産直後で、いわば病み上がりです。あまりに突然のことですし、夫婦でしっかり話し合わなければなりません。この書類は一旦預からせていただけませんでしょうか」
少しの沈黙のあと、産後ケア施設の一室に和英氏の怒声が響き渡った。
「お前! 何者だと思ってるんだ、お前!! この場でサインをしなければ、片道切符で日本の配送センターに飛ばす」
「中埜家に日本国憲法は関係ない」
聖子さんは強く動揺し、取り乱して、両親に謝罪を始めた。
「すみません。すみません。私はサインをしますので、許してください」
そして、その場でサインをしてしまった。
和英氏は「謙虚」という言葉の意味を大輔さんに音読させ、さらにたたみ掛けた。
「お前、謙虚にすると言ってなかったか? 俺は、聖子の資産を全て取り上げて、無一文にして放り出すこともできるんだぞ? なぜ、私たちがわざわざロンドンまで来たと思っているのか? (養子縁組届出書は)大輔を追い出すための書類じゃないんだから、サインするよな?」
父として息子にできること
なおも迫る和英氏に対し、大輔さんは引き下がらなかった。
「夫婦で話し合う必要があるので、この場でのサインは勘弁していただきたい」と繰り返し伝え、ひとまず引き取ってもらったのだ。
和英氏・美和氏らが出ていったあと、聖子さんは施設の廊下で泣き崩れた。大輔さんも大きなショックを受けた。渡英前、大輔さんは実印を言われるまま渡していた。2人が届出書にサインをし、それを和英氏・美和氏に送り届ければ、あとはもうどうすることもできない――。
その日の夜、2人は今後のことを話し合った。
「家族3人で幸せに暮らすことが一番大切。義父母に服従したり、ミツカンの仕事に執着したりする必要はないと思う」
そういって、大輔さんは聖子さんに家を出ることを提案した。届出書を和英氏・美和氏に渡すのを拒絶し、その代わり、無一文になってでも一家で家を去ろうと。
しかし、両親にひどく怯えている聖子さんに、その言葉は受け入れられなかった。美和氏から脅迫メールを送りつけられていたのだ。
「(命令に従わなければ)殴られるくらいじゃ済まされない。別れるのが絶対条件」
子どもを産んで5日目の実の娘に、美和氏は容赦のない言葉を投げつけた。離婚だけは回避したいという聖子さんは、泣きながら懇願した。
「両親は大輔さんを家から追い出すつもりはない。私が(両親と大輔さんの)間に入って家族を守る。お願いだから、養子縁組の書類を両親に提出してほしい」
妻子を守るために選択の余地などないと観念した大輔さんは、届出書にサインし、義父母の滞在するホテルに書類を送り届けた。
出産から約1週間後、親子3人で産後ケア施設からロンドンの自宅へ戻ると、大輔さんは家族が増えて3人になったことを改めて実感する。
「赤ちゃんの存在感は特別で、家のなかがさらにパッと明るくなったようでした。育児グッズも一気に増えて、子育て中心の生活に様変わりです。同時に、僕たち夫婦はこれまでにも増して一体感が生まれ、絆が深まったようでした」
産まれたばかりの息子を奪いにきた義父母の行為に、大輔さんはショックを受け、気落ちしたが、それでも彼は前を向き、やれることをしっかりやって生きることにした。可能な限り、父としてできることはしよう――。
大輔さんは腹をくくった。そして「3つのルール」を作った。
・息子に愛情を注ぐ。
・“育児ノート”を作成して息子の記録を毎日残す。
・お風呂は毎日僕が入れる。息子と裸の付き合いをする。
というものであった。
そして、息子と引き離されるまでの1年あまり(日本に一時帰国したとき以外の時期)、毎日欠かさずこれを実行したのであった。平和でゆったりとした幸せな時間を3人は過ごしていた。しかし、それは束の間の幸せであった。