「偽装別居」を開始した
耐えがたい現実を突きつけられた大輔さんは、和英氏・美和氏らが家から去ったあと、すぐに行動に出た。以前、入手し、書き込んでいた「養子縁組不受理届」を取り出して握りしめ、文字どおり全速力で日本大使館へと走ったのだ。十数分後、大使館に駆け込んだ大輔さんは息を切らせながら、受付で言った。
「いままさに、日本側で手続きがされており、息子と引き離されそうなんです。急いで、この『不受理届』を申請したいのですが……」
ただならぬ雰囲気の大輔さんに、大使館員は不受理届の申請の方法を懇切丁寧に説明し、書類を受理した。数日後、ミツカン本社のお膝元である半田市役所から、不受理届の受理を告げる電話がロンドンの自宅にかかってきた。
「『不受理届』が正式に受理されました。今後、息子さんが養子になることはありません。(和英氏から)養子縁組届出書はまだ提出されていませんでした」
電話を受けたとき、大輔さんはちょうど生後4カ月の息子をエルゴ(抱っこひも)で抱えていた。息子はスヤスヤと幸せそうに大輔さんの胸で寝息を立てていた。
「息子よ。パパは頑張ったぞ」
そう言って、大輔さんは息子のおでこにキスをした。何も知らぬ息子は、相変わらず幸せそうな寝顔でムニャムニャとしていた。
ひとまず、大輔さんは安心した。しかし、問題はこれからだった。不受理届に気がついた和英氏・美和氏が激怒し、徹底的な報復をしてくることは火を見るより明らかだったからである。
水面下でミツカンの顧問弁護士と謀議を重ねた和英氏・美和氏は、ついに強硬手段に出る。聖子さんに対して、2015年8月18日に別居を開始するよう強要したのだ。大輔さんの誕生日が翌日の19日であるため、踏み絵を踏ませたのだろう。
聖子さんは18日から別居を開始したと両親に報告したが、実際は家族3人で大輔さんの誕生日(19日)を祝ったあと、20日から「偽装別居」を開始した。
その後も、家族3人は和英氏・美和氏に秘して、毎日のように夕食を食べ、家族団欒を続けた。しかし、この生活も長くは続かなかった。同年10月、ついに大阪の配送センターへの出向が命じられたのだ。
11月7日、大輔さんは妻子をロンドンに残し、後ろ髪を引かれる思いで日本へ帰国した。この理不尽な出向命令に対し、大輔さんはミツカンを相手取って裁判を起こす。それは、人事権を濫用する計画(大輔さんをロンドン支店から大阪の物流センターへ飛ばす計画)を立て、実際に計画どおりの出向を行ったことに対して仮処分を求めるものであった。
1年間、自宅待機
しかしミツカンは、「英国の拠点は廃止した。だから戻すところはない」とありもしないをつき、1年間、彼をどこにも配属させなかった。大輔さんは1年もの間、自宅待機を強いられたのだ。
「地獄の日々でした。配送センター付近は畑の多い地域で、お店が近くにない。家族に会えないストレスを紛らわすため、1時間半ぐらいかけて大阪の中心部まで出て、ジムに行ってご飯を食べて帰ってきたり、船舶免許の1級や簿記の資格をとったりして、何とか気を紛らわせていましたね」
しかし、この頃から夫婦の歯車は少しずつ狂い始める。
以下は、先の裁判で聖子さんが提出した陳述書だ。
《私と大輔さんが別居を開始して以降、大輔さんが日本に帰国するまでに大輔さんが○○(息子)との面会を申し入れたのは、2回だけでした。1回は私が出張のため都合がつかなかったため、実際に会ったのは1回だけです》
実際には、家族3人は毎日のようにともに過ごしていた。和英氏・美和氏の苛烈な圧力から逃れるための偽装別居だったからだ。
聖子さんの虚偽の陳述書を見た大輔さんはLINEで、
「これはやりすぎだよ」
「親にいい顔をし過ぎです」
とやんわりと抗議。最初のうちは聖子さんから「ごめんね」と返信があったが、その後、「忙しい」という理由から、徐々に大輔さんと息子の距離を置くようになった。
これを最後に音信不通に……