私はこの機会に、金平が死を悼んだ大道寺将司によって惨殺された三菱重工爆破事件の被害者一人ひとりを、もう一度悼むこととする。
1974年のあの日、日本バルカー工業所長代理だった山﨑隆司さん(38)は、商談のため静岡県から上京し、建物から出たところで犯行グループが仕掛けた爆弾が炸裂して即死した。11歳を筆頭に3人の子供のパパだった。
41歳のデザイン会社役員だった桜井秀雄さんにも、同年代の妻と10歳の長女と7歳の次女がいた。
遺体の損傷が激しく最後に本人確認が終わった三菱重工業の環境装備部主任だった石橋光明さん(51)も、妻と一人息子の中学3年生明人君(14)を遺して逝かざるを得なかった。
当時の新聞によれば、東京・大田区の自宅に殺到する報道陣を前に、明人君は涙を見せることなく気丈に振る舞い、近所のおばさんに労わりの声をかけられると、一言だけ「悔しい」と唇を噛み締めていたという。
父の遺体が収められた棺を前に首を垂れる明人君の後ろ姿を捉えた写真は、当時8歳だった私も覚えている。
光明さんの享年は51歳。私より6歳も若い。そして私より6歳年上の明人さんは、今62歳になっているはずだ。大道寺将司によって理由もなく殺された8名のかけがえのない命。残された明人さんら多くの遺族は、その後の人生を逞しく生き抜くことが出来ただろうか。
報道の使命とは、まずは何をおいてもこうした無辜の被害者に寄り添い、犯人グループに怒るという「素直な正義感」の発露としての報道に徹することだ。
大道寺らの犯行を厳しく糾弾する報道をキッカケに、明人君ら犯罪被害者をどのように社会に包摂し救済していくかの議論が高まり、事件から6年後の1980年「犯罪被害者等給付金制度」が作られた。これこそが、テロとテロリストを憎み被害者に寄り添うジャーナリズムが成し遂げた、ささやかな抵抗の証だ。
ところが、ジャーナリストを自称し、報道番組のキャスターを務めている金平は、こうした報道の正義とは真逆の人間だった。
戦後史上最悪の爆破テロを主導し、しかもその被害者を冒涜したテロリストを、今更のように悼んだのだ。金平の投稿を見て、大道寺に殺された天上の被害者・山﨑隆司さんは、桜井秀雄さんは、石橋光明さんは、どう感じるだろうか。
石橋さんの忘れ形見である明人さんは、父を惨殺したテロリストの死を悼む金平の投稿を見て、何を思っているだろうか。こんな金平には、統一教会問題だろうが何だろうが「被害者への謝罪がない」などと他者を糾弾する資格は絶対にない。
そして金平の問題は、被害者の感情を顧みない「非常識な人物」ということにとどまらない。金平こそ、大道寺将司の暴力革命思想をそのまま現代に引き継いだ「報道テロリスト」なのだ。
「最も政治家にしちゃいけない人間なんだよ」
金平は2005年5月に、TBSの報道局長となった。この直後、当時TBS政治部にいた私は報道局長室に呼ばれて、金平と向き合った。
金平がモスクワ支局長を務めていた90年代前半、私はロンドン支局にいたから、ロシアの騒乱の現場などで一緒に取材をした経験もあり、記者としても人間としても互いによく知っていた。
当時、私は政治部で外務省を担当していたこともあり、北朝鮮情勢などについて意見交換するつもりだった。ところが金平は、私が報道局長室に入るなり、不快な香りのするお香を焚いた。まるで不浄なものを忌み清めるように。そして開口一番、こう言った。
「安倍晋三っていうのは、最も政治家にしちゃいけない人間なんだよ」
唐突におかしなことを言うので、私はその真意を訝りながらこう尋ねた。
「直接取材したことがあるんですか?」
「あるわけないだろ。ろくな人間じゃないのは、あの弛んだ顔だけ見てもすぐわかる」
「どこがそんなに気に入らないんですか?」
「あんな極右政治家が官房長官をやっているということだけで、俺は我慢がならないんだよ」
感情を抑えきれない様子の金平の発言はもはや理解不能だった。金平は社会部記者を経て、「筑紫哲也ニュース23」のディレクターなどを務めていたが、政治部の経験はなかった。
直接取材したこともない政治家に対して、まるで不戴天の敵のように怒りを爆発させる金平の尋常ならざる狂気に少なからず驚いたのを鮮明に覚えている。
この1年後、TBSは総務省から厳重注意処分を受けた。
2006年7月21日、夕方のニュース番組で太平洋戦争の731部隊に関する特集を放送した際、全く無関係な安倍晋三官房長官の映像に「ゲリラ活動!?」という文字スーパーをかぶせて、安倍氏の印象を不当に貶めたからだ。