はじめに―――国際的視野を持て
日本での宗教の取り扱い、就中、国家と宗教の間の距離感(政教分離)につき現状を眺めると、国際的水準に比し、冷淡・無感覚なところが目立つ。政府も司法も、宗教問題に正面から取り組むことにしり込みしている。さる3月25日に東京地方裁判所が下した旧統一教会の解散命令は、まさにそうした日本の体質を浮き彫りにするものであり、違和感を持たざるを得ない。間違っても、中国がやりそうな強硬なことはやるべきではないということだ。
加えて、より根源的なレベルでいえば、憲法の保障する信仰の自由は「絶対的なもの」であり、いわゆる三要件が、たとえ文科省の指摘どおり満たされているとしても、だからといって直ちに解散させるという結論に進むことには極力慎重であるべきというのが、国際的スタンダードだとの視点も重要だ。
では、国家と宗教の関係につき、国際社会はどう取り組んでいるのだろうか。まず、米国の場合を見てみよう。
さる1月20日に挙行された米国のトランプ大統領の就任式については、本邦でもNHKほか各局がこれを報道したが、かれらが注意を向けなかった事項がひとつあった。
それは、トランプ氏の宣誓の前後に、併せて5名の聖職者が祈祷したことだ。内訳は、カトリック教会から2名、プロテスタント2名、ユダヤ教1名。一番バッターは、トランプ氏と昵懇なドラン枢機卿(NYの大司教)であった。
これは、宗教面で保守的なトランプ氏に限っての特別なことと思われる向きがあるかもしれないが、そんなことはない。アイゼンハワー大統領以降、歴代の大統領の就任式には同様の祈祷が行われている。
つまり、「政教分離」を旨としている米国で、国家元首の就任式という国家にとり最も枢要な行事に宗教が持ち込まれているわけだ。これが、日本国憲法に「政教分離」主義を持ち込んだあの米国の実相である点を、まずはご了知いただきたい。
かかる米国の実相は同国だけに特有のものではなく、わが国近代化のモデルであった西欧の国々でも広く見られる。すなわち、建前上は「政教分離」主義を謳いながら、実態面では宗教(教会)と国家とが意外なくらい近い関係にある国が少なくない。
つまり、日本では厳格な「政教分離」が西洋の一般的な姿だと思い込んでいる人が多いようであるが、これは全くの誤解だ(『月刊Hanada』2022年12月号で詳しく触れた)。
繰り返しになるが、西洋の国々では、フランスをはじめとするごく一部の例外を除き、国家と宗教(教会)はかなり柔軟かつ懇ろな関係を維持している。「黒か白か」という二者択一の発想ではなく、ケースごとに匙加減を決めている。
これに対し、日本においては政治、行政、司法のどれもが「政教分離」を杓子定規に解し、公共的空間から宗教を排除することにこだわる硬直的な運用が行われている。然も、そうであることへの自覚・認識が総じて不足している。
そこで本稿では、「政教分離」の先輩格にあたる西洋系の国々の事例を紹介し、次いでそれとの対比において、わが国の実態が如何に硬直的であるか、お示しする。
西洋の実相―――日本より柔軟
まず、キリスト教圏といえる西洋諸国における宗教(教会)と国の距離感につき、5つの観点から概観する。
①国家元首等の葬儀―――日本は中国並みの無神論?
西洋と日本の違いが最も端的に表れている事例、分かりやすい事例は葬儀であろう。最近でいえば、25年1月に行われた米国のカーター元大統領の国葬は、ワシントンにある大聖堂で執り行われた。また、22年9月に行われた英国のエリザベス二世の国葬は、同王室所縁のウェストミンスター寺院で執り行われた。
いずれの場合も国葬、すなわち国家の重要行事が、宗教をベースに行われたということだ。国王がイングランド国教会の首長でもある英国や、宗教に篤い米国で国葬、すなわち国家の重要行事が教会で行われることに何ら不思議・違和感はない。
では、公共スペースから宗教を締め出すことにあくまでこだわる厳格な政教分離主義(ライシテ)を国是とするフランスではどうか? 同国でも過去を振り返れば、ドゴール元大統領の国葬(1970年11月)、シラク元大統領の国葬(2019年9月)は、教会(前者はパリのノートルダム寺院、後者は同サン・スルピス寺院)で行われている。こと葬儀に関しては、ライシテにこだわることなく英米並みに、柔にやっているわけだ。
国葬であれ、政府葬であれ、フランスを含めたこれら諸国では、そもそも宗教を排除して葬儀を行うという発想自体希薄だ。それだけに、国葬であれ、政府葬であれ、政党葬であれ、宗教を排除しての日本の葬儀は、海外からの参列者には異様に映っているようだ。どぎつくいえば、「日本は“中国並み”の無神論国家なのでは?」という疑問すら抱かせている。
②国家元首の「就任」式……英国の場合
次いで、国家元首の就任式に目を向ける。米国大統領の就任式が宗教色を排除していない点については、先に述べたとおりである。とはいえ、葬儀とは異なり、宗教色はあくまで副次的だ。
これに対し、英国国王の戴冠式(25年5月、ウェストミンスター寺院)は、宗教色がはるかに濃厚であった。否、宗教儀式そのものであった。いうまでもないことだが、儀式を「宗教的な部分」と「世俗的な部分」の二つに分けてそれを別々に行うという不自然かつ「人為的」な(日本的)発想は、英国にはないようだ。
③多数の国が「教会税」制度を維持
上記の事例以上に、西欧における国と教会との近縁性を示すものとして、いわゆる教会税制度がある。いろいろな方式があるが、大雑巴に括れば、政府は一定額を教会税として徴収のうえ、教会ほか諸団体に配分する制度だ。この制度を保持している国は、ドイツ、デンマーク、イタリアなど10カ国に及ぶ。
たとえば、ドイツではカトリック系、プロテスタント系諸教会の総収入の70%が教会税により賄われている。また、デンマークでは、デンマーク国教会の総予算の9割を教会税がカバーする。
それら諸国では、教会(その他の宗教が含まれることあり)は政府から「会費」徴収という特別のサービスを受けているが、その他の市民団体・NGOは政府から同様のサービスを受けていない。つまり、教会がある種の特権を得ていることは、それら政府が「政教分離」の旗をもっともらしく掲げているだけに、皮肉なことのように感じられる。
以上のように、これら諸国においては、国と教会とは、日本では考えられないような「特別の関係」にある。
④国教会の存続
最後に、国と教会の近さを示す意味で、上記③をさらに凌ぐ「究極的事例」に触れておく。それは、国教会の存在だ。
代表例が英国。といっても、スコットランドなどを含む連合王国ではなくイングランドに限定されるが、イングランド教会(the Church of England)は国教会であり、国王はその首長を兼ねる。したがって、カトリック教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒はもとより、無神論者も国王にはなれない。
同様の制度は、デンマーク、フィンランド、アイスランドも保持している。21世紀初頭まで国教会制度を維持していたスウェーデンも同様であり、同国大使が語ったところでは、たとえば、無神論者は今日なお、国王にはなれないとのことであった。
つまり、これらの国では、国と教会は理屈上は「一致して」おり、政教分離とはいい難いものがある。
⑤フランスのライシテ ―――公共から宗教を締め出し
このように、教会と国が近縁関係にある場合が少なくない西欧において、両者の分離に強くこだわっているのがフランスである。同国の場合、フランス革命の遺産ということになるが、公的空間から宗教を締め出す(=私的空間に閉じ込める)ことに強いこだわりを有している。
この厳格な分離主義をライシテというが、このライシテは、私なりの位置づけでは啓蒙思想左派の流れを汲むものであり、反宗教的な色彩、場合によっては、無神論的色彩が感じられる。
ちなみに、無神論を国是とし、宗教を私的領域に閉じ込めることに強烈なこだわりを示す中国政府は、宗教に関し、時としてフランス政府と似た姿勢を示す。