耳を澄ませたい昭和史の声|早坂隆

耳を澄ませたい昭和史の声|早坂隆

時代が令和となり、昭和が遠くなるにつれて、先の大戦に関する議論も「机上の空論」になりつつある。そんないまこそ、改めて戦争体験者の生の声に立ち返るべきではないだろうか。  


西太平洋に位置するパラオ諸島は、大正9年から国際連盟の決定によって日本の委任統治領となった。  

日米戦争が始まると、米軍はパラオ諸島南部のペリリュー島に目をつけた。これに対し、日本軍は迎撃態勢を細かく整備。さらに、島の住民に対して「他島への疎開命令」を発出した。ペリリュー島で指揮をとる歩兵第二連隊の連隊長・中川州男大佐は、同島で暮らす約800人の原住民と、約160人の在留邦人に対し、速やかに他島への退避を命令。この疎開指示によって、民間人への被害はほぼゼロに抑えられた。  

パラオ共和国の元大統領で、ペリリュー島出身のクニオ・ナカムラ氏は、私の取材に対して以下のように明快に応じてくれた。

「私の父は伊勢市出身の船大工、母はペリリュー島の首長部族の出身です。ペリリュー島の島民は、米軍の上陸作戦が始まる前に、日本軍の命令によって他の島に疎開しました。私の家族はパラオ本島のアイメリークという場所に疎開したという話です」  

1943年生まれのナカムラ氏に疎開時の直接の記憶はない。しかし、ナカムラ氏は次のように語る。

「私は先の戦争、特に当時の日本軍とその行動については、昔から大きな関心を持っています。なぜなら、もしあの時、一家で疎開していなかったら、おそらく私はいまここにいないのですから」  

昭和19年9月15日、米軍の精鋭部隊である第一海兵師団が、ペリリュー島への上陸作戦を開始。島中に張り巡らせた地下陣地に籠もっていた日本軍は、海岸線に殺到する米軍を充分に引きつけたうえで迎撃を始めた。やがて白兵戦も始まったが、日本軍は無謀な「バンザイ突撃」を控え、戦線を山岳部まで後退させていった。海軍上等水兵としてこの戦いに参加していた土田喜代一さんは、上陸戦初日の体験をこう語る。

「その夜、壕のなかで陸軍のとある兵士から棒地雷を渡されたのです。海軍の私は棒地雷というのをこの時に初めて見ましたが、陸軍には以前からあったようですね。ちょうど刀の鞘を少し大きくしたようなもので、先端に爆薬筒が付いています。この棒地雷を持ったまま『戦車のキャタピラに体もろとも突っ込め』という話でした。やがて『米軍のシャーマン戦車が接近中』との情報が入りました。すると中隊長が立ち上がって、声を張り上げたのです。『いまから戦車攻撃、希望者3名、集まれ』と。 その時、最初に伍長か何かがパッと『はい、私、行きます』と答えました。それから、2人目が続いて手を挙げた。私は棒地雷を持ったまま、迷いに迷いました。すると、私の隣にいた小寺亀三郎という整備兵が『小寺一等兵、参ります! 死ぬ時は潔く死ねと両親から言われました』とこう叫んだわけですよ。 この小寺というのは『おテラさん、おテラさん』といつも周囲から馬鹿にされていた男なんです。おそらく実弾を撃った経験さえほとんどないんじゃないかと思う。そんな小寺が『参ります!』と言ったので、私は驚きました。私としては、小寺が自分の身代わりになったような、そんな気がしました。 決死隊となった3人は『行って参ります』と敬礼してから、一列になって壕から出て行きました。3人が壕を出て20分ほど過ぎた頃、物凄い爆音が響きました。無論、3人が壕に戻ることはありませんでした」

「日本を護るため。内地で暮らす家族や女性、子どもを護るため」

同じくペリリューの激戦を戦い抜いた陸軍歩兵第二連隊の軍曹・永井敬司さんは、戦場の光景を次のように回想する。

「怪我を負った兵士が『ウーン』と唸りながら、戦友に『早く殺してくれ』と頼む。戦友は『わかった』ということで、軍刀で突き刺す。それはもうひどい状況でした。腕や足を吹っ飛ばされている兵士もいましたし、頭部がなくなっている死体もありました。『天皇陛下万歳』という絶叫も聞きましたね」  

永井さんはその後の戦闘で、迫撃砲の破片が右大腿部を貫通する重傷を負った。水や食糧も尽きたが、それでも永井さんは懸命に戦場を駆け巡った。永井さんをそれだけの戦闘に駆り立てたものとは何だったのか。

「日本を護るためですよ。内地で暮らす家族や女性、子どもを護るため。それ以外にあるはずがないじゃないですか。私たちは『太平洋の防波堤』となるつもりでした。そのために自分の命を投げ出そうと。そんな思いで懸命に戦ったのです」  

このような激闘に対し、昭和天皇からは「お褒めのお言葉」である御嘉尚(御嘉賞)が11度も贈られた。これは先の大戦を通じて異例のことである。  

しかし、11月24日、中川大佐はついにパラオ本島の集団司令部に向けて、 「サクラ、サクラ、サクラ」 と打電。それは部隊の玉砕を告げる符号であった。  

その夜のうちに、中川大佐は自決。同夜、残った将兵たちは最後の突撃を敢行し、同島における日本軍の組織的な攻撃は終了した。  

しかし、実はその後もペリリュー島での戦闘は終わらなかった。日本軍の残存兵が、地下壕を駆使しながらゲリラ戦を展開したのである。彼らは昭和20年8月15日の終戦さえ知ることなく、島内での潜伏生活を継続した。その一人である土田さんは次のように語る。

「私たちは日本が敗れたことも知らず、ひたすら友軍の助けを待っているような状態でした。『米軍に見つかれば、必ず殺される』と固く信じていました」  

土田さんが続ける。

「そんななか、『日本はもう負けている。アメリカに投降しよう』と主張する戦友がいましてね。しかし、その彼は結局、上官に射殺されてしまいました。本当にひどい話です」  

彼らが状況を把握して投降したのは、終戦から1年半以上も経った昭和22年4月のことであった。

1万人以上の日本兵が参加したペリリュー戦であったが、最終的な生存者の数はわずか34名である。

モンテンルパ刑務所

いわゆる「BC級戦犯」とは、連合国側による軍事裁判の結果、戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、またはC項「人道に対する罪」を犯した者として有罪判決を受けた人々のことを指す。世界各地でBC級戦犯として起訴された日本人の総数は約5700人にものぼり、そのうちの約1000人もの人々が死刑を宣告された。  

その一人である宮本正二さんは、第16師団歩兵第20連隊の一兵士としてフィリピンに出征した。フィリピン滞在中に難関の憲兵試験に合格し、マニラ南憲兵分隊に所属。しかし、昭和20年1月、米軍の猛烈な反攻が始まったことを受け、ルソン島の北方へ退避することになった。そんなある日、米軍から多くのビラが散布された。ビラには「戦争は終わった」と記されていた。

「最初は信じなかったんですがね。そのうちに、上官から正式に敗戦という事実を知らされました」  

以降、宮本さんの長きにわたる収容所生活が始まった。いくつかの収容所を転々としたが、帰国の日は一向に訪れなかった。  

終戦から実に3年近くが経った1948年6月、宮本さんはマニラの裁判所から突然の呼び出しを受け、「戦犯」としての起訴を告げられた。

「実はあまり驚くようなこともなかったんですよ。周囲にそういう仲間が大勢いましたから。その時は、そこまで重大な裁判になるとは思っていなかったのです」  

宮本さんの裁判は、翌7月から始まった。起訴されたこと自体には驚かなかった宮本さんだが、起訴状の内容を確認した時には驚愕のあまりに身体が震えた。  

なぜなら「マニラ近郊のアンティポロという町で、11人ものフィリピン人を不法に殺害した」というまるで心当たりのない容疑だったためである。「現地住民を虐殺した実行者」として、いわゆる「C級戦犯」の容疑者とされたのだった。

「憲兵隊に入る前の新兵の頃、たしかにアンティポロに駐留したことはありました。しかし、全く身に覚えがないことでした」  

当然、宮本さんは無罪を主張した。

「自分の知らないことですからね。何か他人の話を聞いているような感覚でした」  

起訴状にはその事件が起きた時期として「昭和17(1942)年9月或いは其頃」と記されていた。しかし、実際の宮本さんは、その時期にはすでにルセナという町へと移動していた。アンティポロに駐留していた「垣六五五五部隊岡田隊」から、ルセナの連隊本部に移っていたのである。  

そんな宮本さんに対して、「この男がフィリピン人を殺したのを見た」と証言したのは、一人の見知らぬ老人であった。

「近くに住んでいたというおじいさんでした。結局、その証言がそのまま採用されてしまったのです」  

8月13日、宮本さんに下された判決は「絞首刑」だった。

「諦めと言いますか、もはや衝撃もあまり感じませんでした。良く言えば『大悟』 『諦観』といったところでしょうか」  

そんな宮本さんの移送された先が「モンテンルパ刑務所」であった。こうして宮本さんの死刑囚としての生活が始まった。

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