左翼活動家は反政府に利用できるならば手段を択ばない。フクイチの事故に関して言えば、同じ被害者でも自主避難者などは“弱者”扱いで御輿に担いだ一方、福島に留まった人間の復興は執拗に妨害・攻撃してきた。その基準は、“原発事故で苦しむ哀れなフクシマ”の象徴として反政府活動に利用できるか否か。慰安婦もLGBTも、ぜんぶそうだった。“弱者の味方”しぐさを大義名分としていながら、その実、真の弱者を左翼は簡単に踏みにじる。
福島への心無いデマと風評
たとえば福島への心無いデマと風評など、実態は左翼活動家とマスコミが作り温存してきたものだ。まんまと煽動されている“善意の”末端はともかく、左翼の中核は日本を良くしようなどとは毛頭考えていない。日本の国力を弱体化させ、社会の破壊と転覆を虎視眈々と狙っている。そのためには外患誘致に等しいことも行ってきた。慰安婦問題しかり、フクイチの放射能問題しかりだ。“東京放射能オリンピック“などと海外で喧伝してきた左翼活動家を野党が公認し、選挙に擁立した実例すらある。
古くは成田三里塚闘争の時代から何一つ変わっていない。事あるごとに足を引っ張る左翼の“反対”が、真に国益を高めようとするものであった試しがあるものか。
極左暴力集団の跋扈は過去の話ではなく、安保闘争世代が“老害”のように権力を握った今こそ、“青春の残滓をもう一度“的にハッスルしているので実にタチが悪い。同世代としては恥じ入るばかりである。安保闘争の亡霊どもに、日本の未来を奪わせてはならない。