「405」の数字の意味
再び、11月5日、文科省の一室の場面に戻る。教科書調査官との面接の時間は一時間程度となった。私たちは怒り心頭だったが、極力抑えていくつかの項目についてただした。論争になったものもある。ほとんど納得できる回答は得られなかった。
そのあとどうするか。関係者のなかには、すぐにこの悪行を暴露して戦うべきだという意見もあった。しかし、反論書を提出しないことの説明を会員や支援者に対して行うことが極めて難しく、結局、私たちは11月25日、175項目の反論書を提出した。405件のなかから厳選して、半数近くに異議申立をしたことになる。
しかし、これは全く無駄であった。12月25日、文科省から呼び出しがあり、「反論認否書」を交付された。結果はすべて「否」であった。反論権なるものは、ただの形づくりに過ぎないことを改めて思い知らされた。
では、なぜ文科省は405件も欠陥箇所を積み上げたのか。その意味を知るには、もう一度、検定制度の仕組みを説明する必要がある。すでに、「いったん不合格」の通告を受けても、①70日以内再申請ルートと②20日以内反論書提出ルートという二つのルートがあることは述べた。②は、形式的に反論権はあるにしても、実質的には「一発不合格」と言っていい内容であることは右の経過で明らかになった。
では、①と②は何を基準に分けられるかというと、欠陥箇所の数なのである。その基準は次のようになっている。自由社の申請本は314ページある。それに当てはめた数字も示す。
①70日以内再申請ルートは、教科書1ページ当たり1箇所以上1.2未満の欠陥箇所がある場合。自由社に当てはめると、314箇所以上376箇所以内
②20日以内反論書提出ルートは、教科書1ページ当たり1.2以上の欠陥箇所がある場合。自由社に当てはめると、377箇所以上
言い換えれば、今回、欠陥箇所が376箇所までなら①のルートに入り、年度内合格の可能性があったのだが、それから29箇所、欠陥箇所が積み上げられており、結果として(事実上の)一発不合格となったのである。それが「405」の持つ意味だ。
実は、上の基準が定められたのは2016年である。今回の中学校教科書の検定は、この基準が定められてから初の検定機会であった。それまでは欠陥箇所の数にかかわらず、再申請の道が開かれていたのを断ち切ったわけだ。そこで、いまをチャンスとばかり、自由社の「粛清」に走ったというわけだ。
「理解しがたい」「誤解する」
405件の欠陥箇所を検定基準別に分析すると、次のようになる。数字は件数。括弧内は405件中のパーセンテージ。
▽学習指導要領との関係 5(1.2)
▽資料の信頼性 3(0.7)
▽著作権関係 2(0.5)
▽誤り・不正確・矛盾 59(14.6)
▽誤記・誤植・脱字 29(7.2)
▽理解し難い・誤解するおそれ 292(72.1)
▽漢字等表記の適切 15(3.7)
ご覧のとおり、単純なミスの比率は小さい。ゼロではないが、教科書制作は複雑な作業だから、ある程度のミスの発生はやむを得ない。圧倒的なのは、「生徒に理解し難い表現」と「生徒が誤解するおそれのある表現」の項目で、実に7割以上がその類型の「欠陥箇所」で占められているのである。
しかし、「生徒が誤解するおそれ」というのは何かの調査に基づいているわけでもなく、単に教科書調査官がそう思ったということに過ぎない。そして、欠陥箇所の水増しがなされた主な手段は、この「理解し難い」と「誤解するおそれ」の二つなのである。ここに教科書調査官の趣味や主観的思い込み、価値観が入り込む余地がある。
たとえば、第1章のトビラのページで、仁徳天皇を「世界一の古墳に祀られている」と紹介したところ、「生徒が誤解するおそれのある表現である」という検定意見がついた。「葬られている」と書くべきだというのである。
だが、仁徳天皇がたしかに大山古墳に埋葬されているかどうかは考古学的に確定しておらず、議論の余地がある。だから「誤解するおそれ」があるとすれば、むしろ「葬られている」のほうだ。
他方、宮内庁は大山古墳を仁徳天皇陵に比定し、祀っている。だから、学問的にも教育的にも「祀られている」とするほうが遙かに適切なのである。こうしたことを考慮して、筆者は「祀られている」と書いたのである。
教科書調査官は、天皇や「祀る」という言葉に忌避感を持っていることが推測されるし、あるいは唯物論者なのかもしれないが、個人の趣味を教科書検定の場に持ち込むことは許しがたい公私混同である。
そして、このような主観的恣意が入り込む余地を与えているのが、検定基準のこの項目なのである。