主人公の高英姫は終始一貫「無名」、金正日の急死
筆者が入手した未公開映像を手掛かりに、高英姫神格化作業の秘密をさらに読み解く。
まずは映画制作の背景から。記録映画の巻末には、「(朝鮮労働)党中央委員会、映画文献編集社」と制作者が記されている。制作日は「主体100」(2011年)である。したがって、金正日(2011年12月死亡)の存命中、その裁可を得て制作された計算になる。
映像には、いまは亡き高英姫(2004年にパリで病死)の動画と肉声がふんだんに盛り込まれている。どれも初公開である。ただし、主人公の高英姫は終始一貫「無名」のままだ。本編中、実名と経歴はおろか、偽名すら登場しない。その代わりに、「尊敬するお母様」とか「朝鮮のお母様」 「偉大なお母様」といった別称ばかりが繰り返される。いかにも不自然である。これでは主人公に親近感を抱きようもない。宣伝効果が著しく落ちる作りだ。
そうなった理由は、おそらく金正日の「急死」にある。映画作りを命じたのは金正日だ。しかし、高英姫の実名と経歴をどう扱うか、このきわめて敏感な問題で、明確な方針を下さないまま他界した。
金正恩の後見人勢力が「国家の最高機密」に指定
筆者の知るところでは、金正日急死の直後、金正恩の後見人勢力が、高英姫の実名と経歴を国家の「最高機密」に指定した。これを破る者を「厳罰に処する」との方針が秘密裏に打ち出された。このような経緯で、記録映画から高英姫の名前と経歴が蒸発した。
労働党は大いに苦悶した。主人公が「名無し」では宣伝効果が落ちるうえに、不要な憶測を呼んで流言飛語が溢れる。その副作用を恐れ、映画本編とは別に小細工を弄した。筆者が映像提供者から得た証言では、「試写会」の冒頭に司会者が口頭で、映画の主人公を「李恩実」と偽名で紹介した。
あえて「李恩実」の偽名を口頭で流布させる理由は明らかである。「金正恩」の名前の由来を示すことで、革命血統による権力世襲の正統性を強調するためだった。
金正日から「正」の一文字、李恩実から「恩」の一文字を取り、「正恩」と名付けられた。ちょうど父親の金正日の名前が、金日成の「日」と金正淑の「正」を拝借したのと同じ流儀である。
したがって、映画制作に合わせて「李恩実」の偽名が捏造されたわけではなさそうだ。金正日との同居を機に、高英姫が自身の正体を隠すために使った「通称名」だと思われる。