なぜGHQは「大東亜戦争」の呼称を禁止したのか
昨日8月15日、終戦80年を迎えた。大東亜戦争終戦から80年である。戦後80年という言い方をする方もいるし、敗戦から80年という言い方をする人もいる。しかし、歴史を直視するならば、決して「太平洋戦争」という言い方はしてはならない。ご承知の通り、先の大戦は「大東亜戦争」であり、大戦中に「太平洋戦争」などと呼ばれたことは一度もない。
では、なぜ「太平洋戦争」との呼称が使われるようになったのか。それは米国の占領政策による。GHQは占領下の昭和20(1945)年9月19日にプレスコードを発令、メディアを検閲、統制するとともに、「大東亜戦争」の呼称を禁止した。さらに、GHQは「神道指令」(昭和20年12月15日)により、公文書における「大東亜戦争」の呼称の使用禁止命令を出した。
しかし、日本国民にとっては、先の大戦は今でも「大東亜戦争」であり、「太平洋戦争」ではない。大正生まれの私の祖母は、特に政治的イデオロギーはない人物であったが、亡くなるまで、「大東亜戦争」と普通に呼んでいた。
GHQが「大東亜戦争」の呼称を禁止したのはなぜか。それは、先の大戦が、日本の勢力圏の拡大の意図が含まれたとしても、植民地化されていたアジア諸民族の解放と独立のための戦いであったことが明白だからである。米国はこうした事実が継承されることを恐れた。
GHQは「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」により、日本国民に対して自虐史観を植え付けていく。日本は先の大戦で“ひどいことをし、だから本土空襲も原爆も落とされた”という意識づけを、メディアを通じてだけでなく東京裁判でも行った。
“南京大虐殺”と称されるものは東京裁判で突如出てきたものであり、広島、長崎への原爆投下、東京大空襲をはじめとする各地の空襲で米国によるおびただしい人々への無差別殺戮の理由付けとして使われた。
南京戦は支那事変の攻略戦の一環
米国による広島と長崎への原爆投下では21万人が死亡、東京大空襲では10万人、日本全土の空襲で40万人が命を奪われた。カーチス・ルメイ少将が本土空襲を指揮したが、明確に無抵抗の一般国民を無差別に殺害する意図を持ったものであった。
一方、日本の爆撃はどうであったか。真珠湾攻撃も軍事目標のみであるし、重慶爆撃は「目標ハ重慶市街中央公園都軍公署」と、対空砲台が置かれた場所や軍事関連施設であり無差別爆撃ではない。しかしながら爆撃は一般市民を巻き込んでしまう。避けなくてはならないのだが、戦争においてはこのような悲惨な状況が起こる。
南京戦においてもそうである。東京裁判や“南京大虐殺”肯定派は、おびただしい数の南京市民が日本軍に虐殺されたと言う。しかし、南京戦において日本軍は意図的に住民を殺害したとの記述は公文書に存在しない。私は国立国会図書館の協力を得て、当時の政府や軍の記録を全て調べたが、明確な記述は一切ない。「記述を消したのでは?」と考える人もいると思うが、残念ながら生じた略奪や暴行については記述があり、記述を消すのであればこれらの記述もろとも消すはずである。
南京戦について、政府は外務省ホームページ歴史問題Q&Aにおいて、「日本政府としては、日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害があったことは否定できないと考えている」と記している。
しかし、私の国会質疑(令和5年)を通じて、根拠となる文書は外務省内には存在しないことが明らかになっており、政府が根拠のひとつと示した防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 支那事変陸軍作戦』(昭和50年)における「無辜の住民が殺害され」の記述も、「非戦闘員や住民が巻き添えをくらって死亡した」との前提で記されている。
なお、私は「南京事件」との呼称も使わない。事件ではなく、あくまで南京戦は支那事変の攻略戦の一環である。