この時に逮捕された三一運動の主要リーダー崔麟(チェリン)、李光洙(イグァンス)、崔南善(チェナムソン)、朴熙道(パクヒド)たちは日本の裁判のあまりの公正さに感激し、やがて強烈な親日家となって、1930年代の言論界をリードすることになる。では、その後の彼らの主張を見てみよう。
愛国者なるがゆえに親日になったと主張した李光洙(イグァンス)
独立宣言に先立って学生たちによって発表された「二・八独立宣言」を起草した李光洙は、一端上海に亡命したがすぐに転向し、2年後に次のように主張している。
「半島人自身を救うのは、決して自由でも、独立でもない。勤勉と努力である。彼らはいたずらに半島の独立を叫ぶより、まず精神の独立を図らなければならない」
李光洙は当時の朝鮮の実状を冷静に見据えながら、人々にそう説いたのだ。
さらに彼は日鮮同祖論の立場をとり、「2000年前は一つの民族であった……朝鮮人は朝鮮人であることを忘れなければならない。わが国日本を守るために、我々は大日本帝国の臣民としての責務を全うしよう」と呼びかけている。
終戦後、彼は若者を親日に煽動した代表的売国奴として投獄されたが、一切懺悔せず、自分は愛国者なるがゆえに親日になったと主張した。彼が無謀で実益のない独立運動から身を引いて朝鮮人の地位向上に尽くしたのは、彼の良心と勇気、そしてなによりも朝鮮民族に対する深い愛情がそうさせたに違いないだろう。
中心的役割を演じた崔燐(チェリン)
三一運動の首謀者として中心的役割を演じた崔燐は懲役3年に処せられたが、2年後には仮出獄した。出獄後は独立運動から自治権獲得運動へ方向を変え、当局の計らいでアイルランド等への視察にも出かけた。1934年には中枢院参議に任じられ、その折に次のような言葉を述べている 「真心と赤誠をもって朝鮮人は帝国臣民たることを自覚・自認し、日本人は朝鮮人を真の同胞国民として認めねばならない。内心に爆弾と剣を抱いて、日本国民でござると仮装・偽装し、同一同胞と言いながら優越感を示すならば、これまた渾然一体の日鮮一家は成立し得ない。朝鮮の民族性を尊重し、朝鮮文化を崇拝しながらも、我々は日本帝国臣民たることができ、日本帝国の世界に対する使命に貢献しながら、大東亜の平和に尽力することができるのである」
複数の民族が共存して一つの国をなすうえで、現在の世界にも十分通じる言葉ではないだろうか。