"英雄"柳寛順は拷問死ではない
柳寛順
韓国で三一運動の英雄とされている柳寛順については、東京書籍の教科書(平成14年発行)にも「16歳の少女柳寛順は三一独立運動への参加を呼び掛けたために、日本軍に捕らえられて、厳しい拷問を受けて命を奪われました」と書いてある。
だが、これも朴殷植の『朝鮮独立運動之血史』に基づいた記述に違いない。朴殷植はこのなかで、「逮捕されて拷問にかけられたものは10万人に達した」、さらに「逮捕された女学生は裸体で十字架に張り付けられ、髪を引っ張られると髪の毛も皮膚もともにげ落ちて血が溢れるように流れ、大地を染めた。日本の野蛮人どもは大笑いしてこの残虐を楽しんだ」と書いている。これでは、まるで変質者だ。
しかしあろうことか、韓国の教科書ばかりか日本の教科書までがこれをそのまま信じて、独立を叫んだために残虐な拷問で殺された「ジャンヌ・ダルク」として柳寛順を描いているのだ。
実際には、日本統治時代を通して朝鮮総督府は拷問を禁止しており、拷問した者は懲役3年以下の罰則も設けられていた。金完燮は『親日派のための弁明2』(扶桑社)のなかで、「当時憲兵警察6人と警察2人を殺害し、官公署を破壊放火した朝鮮人被疑者に対しても拷問を加えなかったという日本政府の記録から見て、1年6カ月の軽犯罪である柳寛順を拷問したというのが虚偽捏造であることは明らかだ」と断言している。
さらに彼は、「彼女の死因はデモ現場での負傷や獄中での反抗による体力消耗などが原因だった」と指摘している。
彼女の両親はプロテスタントの「監理教」の信者であり、幼い頃から教会で反日思想を叩き込まれていた。間違った思想の犠牲となった点において、「大韓航空機爆破事件」を引き起こした金賢姫と同列ではないだろうか。
三一運動を批判した韓国人もいた
三一運動において一般大衆は過激な暴徒による暴力や放火、略奪の被害者であり、この運動は決して朝鮮民衆の支持を得たものではなかった。
知識階級のなかには朝鮮の置かれた立場を冷静に分析し、外国の植民地にされずに朝鮮民族が近代化を達成する道は日本と一緒になる以外にないと考え、三一運動を批判した人々も大勢いた。
閔妃の血統に繋がる閔元植(ミンウォンシク)もそのなかの一人である。彼は1887年に生まれ、12歳の時に単身日本に渡った。そこで副島種臣に出会い、福岡県知事の庇護を受け、その後、伊藤博文に拾われて統監府で働いている。併合後は利川や高陽の郡守(市長)に任じられた。彼は郡守時代に三一運動に遭遇しており、事件後に「朝鮮騒擾善後策―鮮民の求るところは斯(か)くの如し」という論文を書いて三一運動の本質を総括している。長文なので、その核心部分のみ引用してみる(『日韓2000年の真実』名越二荒之助編著・株式会社国際企画より)。
「このたびの三一独立運動の近因は、米国大統領ウィルソンの提唱した民族自決主義を、欧州戦争となんら関係のない朝鮮にも適用されるものとする誤解から起こった。もしくは誤解を装うて、ひょっとしたらうまくゆくかもしれないと狙った在外朝鮮人の煽動に由来した。もっと言えば初めから実現できないと知りつつ妄動を企てた感がある。常識的にみれば狂気の沙汰と言えよう……。
日本政府は併合以来10年近く朝鮮人の生命財産を保護し、国利民福を向上させる点において用意周到であった。運輸交通、金融機関の整備、農工各種産業の発達等、旧韓国時代の悪政から朝鮮人を解放し、夢想もしなかった恵沢をもたらした。にも拘らず朝鮮人の性情が偏狭・我執に傾いているためか、口では感謝しながら、心では淋しさを感じ、朝鮮人の自尊心を傷つけるなどと思うものが多い。
さらに朝鮮人は米国を世界の自由郷、現世の楽園のように思っているものが多い。しかしそこは白人の天国であって、有色人種の人権はほとんど認められない。
パリ平和会議で日本が人種差別撤廃を提案したが、オーストラリアのヒュース首相が強硬に反対し、それを真っ先に支持したのはウィルソン大統領ではなかったか。米国の庇護に頼って光栄ある独立が達成できるなど不可能の事である。日本統治下の朝鮮人は、米国に比べて遥かに幸福であることを認識し、穏当な方法によって民権を拡大してゆくことを構ずべきである」
閔元植のような考えが正しかったことは、その後の朝鮮半島の急速な発展によって実証されている。