朝鮮人が歴史上初めて公正な裁判を受けた瞬間
日韓併合によって、朝鮮半島は古代国家の体制から一挙に近代法治国家体制へと脱皮した。
李氏朝鮮時代の残酷な刑罰や拷問は禁止され、先に述べたように拷問した者は「3年以下の懲役」という刑罰も設けられている。
しかしながら、どこまでも日本を貶めたい朴殷植は『朝鮮独立運動之血史』のなかで、三一運動を含む独立運動への憲兵・警察の対応について、次のように書いている。
「憲兵警察の朝鮮民族に対する彼等が行った数々の犯罪について、これをいちいち例証するならば、万巻の書をもってしても不可能であろう(中略)。およそ警察が犯罪者だと目すると、彼等は朝鮮人に限り、司法上きめられた手続きによらずして、ただちに逮捕を行い、当事者だけに限らず、その親族や朋友にまで累を及ぼし、事実の有無、事の軽重などは少しも頓着なしに、無差別な拷問を加えた。そのうえで尋問をし、その後数十回に及ぶ非人道的拷問がくりかえされ、被疑者が人事不省におちいり、すてばちになり自暴自棄の心理状態に陥ること数日(中略)彼等の調査に一度ひっかかると間違いなくそのまわりの人々が累災にあい、重罪に処せられた。(中略)刑事被告人には二十種以上の責め道具で拷問を加え、自白をすれば犯罪調書を偽造し、絶対に被疑者等の免罪を再審することができないように仕組まれていた」
時代考証が全くできていないフィクションである。親族にまで累を及ぼす「連座制」は、日本では江戸時代1742年の公事方御定書でとっくの昔に廃止されている。朝鮮では日韓併合によって最終的に廃止された。日本が統治する20世紀の近代法治国家で「連座制」などあるはずがない。また、前述のとおり拷問は禁止されており、「20以上の責め道具で拷問」したのは李朝時代の話なのだ。
では、実際に日本は三一暴動をどのように処理したのだろうか。金完燮『親日派のための弁明2』(扶桑社)によれば、三一暴動で検察に送検された被疑者は、1919年5月8日時点で12668人、このうち3789人が不起訴処分で釈放され、6417人が起訴されている。(残りは調査中)その後一審で3967人が有罪判決を受けたが、日本人の憲兵6名と警官2名が虐殺され、多くの建物が放火されたにもかかわらず、最高裁判所の判断で内乱罪は適用されず、保安法と出版法しか適用されなかった。
そのために死刑は1人もおらず、15年以上の実刑もなく、3年以上の懲役はわずか80人にすぎない。しかもその後、大幅に減刑され、実際にこの事件で3年以上の懲役刑はほとんどなかった。さらに、1920年の大赦免でそれぞれの刑期が半分以下となっている。
極刑を嫌う日本人の加える罰は極めて軽く、朝鮮人は歴史上初めて近代的な司法制度のもとで公正な裁判を受けたのであった。