右や左の「外国人労働者」論
なぜ外国人労働者を受け入れる制度が「研修」を前面に出し、当人たちを「実習生」などと呼んできたのか。右に「事実上の『移民』であることをごまかすためではないか」という人がいれば、左には「『研修』名目、『実習生』であるという建前で外国人を安く使い倒し、搾取するためだろう」という人もいる。
実際のところ、なぜこんな制度になってしまったのか。
その謎を解き明かすのが濱口桂一郎『外国人労働政策――霞が関の権限争いと日本型雇用慣行が招いた混迷の30年史』(中央公論新社)だ。
「なぜ」の答えは、この副題にある。
つまるところ、外国人労働政策の迷走の理由は二つあり、一つは労働政策を担う労働省(後に厚生労働省)と、外国人の入管業務を担う法務省の間での縄張り争い。もう一つは、「真っ白な新人を採用して一から育てる」という雇用慣行と外国人受け入れ時のミスマッチにあったという。
著者の濱口氏は労働省出身の元霞が関官僚。となると「労働省びいきで、縄張り争いを展開した法務省を悪玉にしているのではないか」と心配されるところだが、そんなことはないフェアな筆致で、当時の経緯を謎解きのように紐解いている。
本書によれば、バブル景気のさなかにあった1980年代後半から、日本では外国人労働者問題が登場してきたという。飛ぶ鳥を落とす勢いで経済成長を果たし、世界第二位の経済大国であった日本には、アジアの発展途上国をはじめとする国々の人々が、短期で割のいい収入を得られる日本で働くべく、やってきていたのだ。
その多くは観光目的で入国しながら労働に従事する不法就労であり、外国人労働者問題はまずはこれに対処すべく登場してきたのだという。
同じ外国人労働者問題、と言っても現在のように「もう外国人労働者の手がなければ日本社会は立ち行かない」と、日本が必要に駆られて前のめりになる状況ではなかったのだ。
「新参者の労働省がしゃしゃり出て…」
とはいえ、不法就労対策の一方で、きちんとした形で外国人労働者を受け入れるべきでは、との思いも、霞ヶ関や永田町にはあったようだ。
そこで1987年に労働ビザの構想をまとめた報告書を出した労働省だったが、入管行政を縄張りとする法務省の猛反発に押されて翌年には外国人を雇用する企業側に許可申請を求める「雇用許可制」提起へと転じる。
当時の状況について本書にはこうある。

