ドイルは1920年に雑誌『ストランド・マガジン』を通じて写真を世に紹介した。世間では作中の探偵ホームズと同様に、合理的で論理的な思考の持ち主だと思われていたドイルが、そのイメージとは正反対に、大真面目に妖精の実在を信じていることは、大きな反響を呼んだ。
当然のように、ドイルの見解に対して賛否両論の渦が巻き起こり、ドイルは1922年に著書『妖精の出現』を発表し、自身の妖精実在論をさらに展開した。
同書のまえがきで「この著作は、写真の信憑性を認めてもらいたいために書かれたのではなく、それにまつわる多くの事実を集めたものにすぎないので、その事実から導かれる推論を受け入れるか否かは、読者諸氏の判断におまかせしたい」と述べている。「都市伝説」で知られる「信じるか、信じないかはあなた次第です」というフレーズを借りれば、まさにその姿勢といえるだろう。だが、一方で「賢明な読者の方々なら、これらの写真が本物かどうかに関しては、私と同じような見解を抱かれるのではないかと思う」と妖精の実在性に自信をみせている。
たとえば、写真が公表された当初から「二重露光」によるトリックによる偽物説があったのだが、ドイルは写真機材のメーカーであるコダック社の技師に写真を鑑定させ、「二重露光ではない」と証言させている。実際、少女たちは二重露光の手法を用いていないので、当然の結果ではある。
ただし、技師は「もし自分たちが、持っている知識や力量を総動員して作業すれば、こうした写真は平常のやり方で作れると考えており、したがってこの写真が、超自然的なものとは断言できない」とも答えている。ドイルは「写真の技術上のことだけなら、まったく道理にかなったことだ」と述べるが、「だが、こうした論法は、訓練された手品師が何もないところから、ある心霊現象に似た結果を生み出せるからといって、霊媒師も手品師と同じ手口を使っているに違いないという、古い懐疑的な反・心霊論者の論拠と同じだ」と、妖精の実在論にこだわる姿勢を示し、そして結局は、コダック社の証言のうち「二重露光ではない」という部分だけを取り上げて、「写真は偽物ではない」と主張するのである。
妖精は心霊体(エクトプラズム)でできている
ドイルは、写真がトリックであり妖精は偽物であるという論者たちの説を取り上げ、それに逐一、反論している。
ある軍医は、写真①で、フランシスが目の前で踊る妖精たちに気をかけず、まっすぐにカメラを見つめる姿の不自然さを指摘したが、ドイルは、彼の助手としてコティングリー村を取材した神智学者、エドワード・L・ガードナーによる「それまですぐそばでカメラを向けられたことがなかった彼女にとって、カメラは、妖精よりもはるかに目新しかった」との説明を紹介している。
またあるジャーナリストは、「写真の中で走っている被写体は、絵に描かれた走る対象物とは、万が一にも似ていない」と、写真と絵画の動きの表現は違うことを指摘した。少女たちの傍で踊り飛ぶ妖精たちの姿は「絵画的な飛び方であって、写真的な飛び方ではない。妖精たちは、絵で表したときのお定まりの表現方法で描かれているのだ」という。これに対してドイルは、やはりガードナーの主張を肯定的に紹介している。ガードナーは「馬や人間のふつうの動きの速写に見られるものよりも、妖精たちの動きのほうが、はるかに優雅であるという批評にたいする説明になっていない」と反論し、「(妖精たちは)骨格から成る哺乳動物ではなく、空気のように変幻自在な形状をもつ」ためだと主張している。
さらにある写真家は「妖精に身体がありながら人間のような影がないのはおかしい」と指摘した。これにはドイル自身が「それは心霊体(エクトプラズム)という物質には、微かながら独自の発光性があり、それが影を弱めるのだ」と反論している。
ちなみに、エクトプラズムとは、心霊現象を信じる人たちの間で「霊の姿を物質化、視覚化させたりする際に関与するとされる半物質、あるいはある種のエネルギー状態のもの」と定義づけられている。

