拘束から116日目
そして当初は「拘束600日」と告げられたものの、実際には116日目に帰宅がかなう。その理由について、劉氏は「聞かされていない」という。
「叩いても何も出てこないと判断したのではないか。最後のほうは取り調べのなかで、私の日本での活動への称賛などが増えていった。これ以上調べても無駄だと判断したのだろう。解放前には態度も親切になっていった。監視員らも『英語や法律の勉強を長くしている』だの、『テコンドーの天津大会で優勝した』だのと、雑談に応じるようになっていた」とも。
劉氏の手記にはこう綴られている。
〈2017年、新旧正月を天津で迎える。花火の「音」だけの正月だ。(※中略)(※取り調べ官のボスから)大みそかに特別「麒麟一番搾り」500ミリリットルが一本届く。久しぶりのアルコールだ。一人で飲むビール…。酒は雰囲気で美味しくもまずくもなる…。有難いビールであったが、こんな環境では苦いだけで美味しくない。3月14日は私の誕生日。昨(※2016)年の70歳の誕生日は岡山で、国会議員をはじめ100名の方々に祝ってもらった。今回は、拘束の地・天津で(※取り調べチームの)リーダーが「今日は劉さんの71歳の誕生日ですから」と、ケーキと白切鶏5切れで、(※係官計)4人で祝ってくれた。(※中略)
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(※2017年)3月16日リーダーから、チケットが取れたから明日天津から関西空港へ帰国させる…とのこと。なんと、4カ月ぶりの解放だ!しかし…(※通訳の)姜君はすでに日本に帰っているのかどうか確認したところ、まだとの事。「私だけ先に帰る訳にはいかない、一緒に帰してくれ!」と言うと、「もう少し(※取り調べ)業務が残っているので…。済んだらすぐ帰します。中国共産党を信頼してください!」という返事。その言葉を信じて先に帰国する。3月17日昼過ぎ、大阪(※関西国際空港)へ到着。2人の子供が迎えに来て再会を喜びあった〉
帰宅後も当局から電話が
劉氏は帰宅に際し、天津の当局に保証金5000人民元を預け、復路の航空券を自費で購入し解放が決まった。「帰宅後も一年間は日本の当局やメディア関係者らに何も話すな」と念を押され、実際に帰宅後は、当初は2週間に1回、のちには1カ月に1回、天津当局から国際電話があり、「誰と会ったかなど、行動を聞かれた」という。
帰宅から1年後の2018年春、天津の当局から「預かった保証金を取りにくるように」と促されたが、劉氏は「もう二度と中国本土には行きません」と話している。当時の総会事務局長兼通訳の姜氏は劉氏に約1カ月遅れて4月14日に日本へ戻ったが、姜氏は天津には送られず、テレビ視聴も可能で、日本に戻る直前は長春の実家に帰されたというが、「気持ちの整理ができるまでしばらく休養したい」と申し出た。拘束体験の詳細は話したがらず、筆者も取材はできなかった。
劉氏は「私の拘束で、他の会員は萎縮してしまい、総会連絡用のチャットからも中枢メンバー30人が抜けるなど、総会運営は混乱した。帰宅直後の会長改選にも立候補者はゼロ。しばらくは副会長などの役職者は一切なしで、会長と会員だけという期間もあった」と振り返る。
劉氏の拘束期間中、総会事務局は職員の給与や事務所賃料などにも困窮し、岡山国際交流センタービル内に借りていた2部屋のうち、1部屋を解約することになった。事務局から去る人が相次ぎ、姜氏もその後、事務局から距離を置くようになった。