また、獣医師の不足だけでなく、「偏在」も深刻な問題です。
たとえば2010年、宮崎県を中心に口蹄疫が流行し、4カ月ほどの間に約30万頭にも及ぶ牛、豚などが殺処分される事態となりました。
口蹄疫の最大の防御は、第1に早期発見ですが、幸運なことに、この時にはベテランの獣医師が最初の1頭の異変を見つけてすぐに手を打つことができました。第2は感染した個体をすべて処分することです。鶏ならばともかく、牛の場合は1頭を処分するのも重労働で、下手をすると人がけがを負う危険も大きい。このような事態に対処できる獣医師が日本にどれだけいるか。
派遣できる獣医師を国がプールしているわけでもなく、宮崎の獣医師だけでは足りません。そのため、日本中から大動物臨床のできる獣医師をかき集めて宮崎に派遣しました。
産業動物臨床医は高齢化も目立っており、技術はあるけれど歳を取っている人たちが重労働に耐えながら何とか対処したというのが実態です。
危機管理とは、「いざ」という時のために対処できる体制を整えておくことですが、日本では全くできていなかった。口蹄疫の発生によって、日本の置かれている状況が明らかになったのです。そして、産業動物診療や公務員などの仕事に従事する人たちには年齢的な偏りもあり、将来的に対処がより難しくなっていくのが現状です。
口蹄疫と同様に、BSEなども国境を越えて蔓延する伝染病です。ある国で発生すればあっという間に隣国に流れ込み、適切な対応をしなければ世界中に広がってしまいます。
そのため、OIE(国際獣疫事務局)という国際機関は、世界中の家畜の病気のリスク管理を行っており、国際的な獣医師のレベルを統一しようと力を入れています。少なくとも日本は、国際レベルに追い付かなければならない。日本の獣医学教育の質の低さが、回り回って世界に迷惑をかける可能性さえあるのです。
このような状況を改善しなければならない。これが私の危機意識の原点であり、「獣医学教育改善運動」の根幹にもこれがあります。
私に対する脅迫状が
私が初めて日本獣医師会の『会報』に〈獣医学教育の危機〉という一文を発表したのが1998年のことで、いまから20年前です。この頃、すでに獣医学教育は「危機的状況」にあり、「獣医師国家試験を合格しても知識や技術に乏しく、臨床家として使いものにならない」という社会の厳しい声がありました。
しかし、獣医学教育改革については社会の支援がなかった。特に新学部新設に関する日本獣医師会の反対運動は熾烈で、新学部を新設したいという動きがあるや否や、政治家や文科省、農水省に対して「絶対反対」の働きかけを行ってきました。
こちらも理解がある議員にご協力をいただき、岩盤規制に穴をあける努力をしましたが、成果を出すには至りませんでした。
また昨年2月には、「東京大学農学部畜産獣医学科OB会 獣医学科OB会」という差出人名で、私に対する脅迫状のようなものが送り付けられました。
〈君は獣医界、最大の裏切り者として汚名を後世永遠に残すだろう。獣医界から永久追放だ。切りて捨つるに何かある〉
最後の一文は、東京大学運動会応援部の第一高等学校寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」から取ったものでしょう。
どうしてそこまで、と思われるかもしれませんが、やはり競争が嫌な人がいるのでしょう。現在、私立獣医科大学は入学志望者が多く、平均で10倍近い競争率となっています。
毎年の受験料だけでも大きな収入になる。また、小動物診療の動物病院などは飽和状態にあり、「これ以上増えると経営が成り立たなくなる」というところまできています。
だから、どうしても定員を増やしたくない。日本獣医師会にしてみれば、「抵抗勢力」と言われても50年間守り続けてきた規制をこれから先も続けることが使命であり、それが獣医師の権益を守ることになる、と本気で思っているのです。これまで取り組んできた獣医学教育改革運動の過程でもさまざまな壁にぶつかり、05年には「敗北の記」を書くことになるのですが、「世界レベルの獣医学部を」という目標を、国家戦略特区という政策を使って実現しようとしたのが今治市であり、加計学園だったのです。
あれだけの報道のなかでも、加計学園の岡山理科大学獣医学部はなんとか2018年4月に開学することができたのですが、これは規制が緩和されたからではありません。
新獣医学部はいまのところ、あくまでも特区という特例で新設が認められたに過ぎないのです。安倍総理は17年6月、「地域に関係なく、意欲があれば2校でも3校でもどんどん認めていく」と述べていますが、日本獣医師会は「1校限り」との条件を崩してはいませんし、現実問題としても、あと数年は不可能です。
それは、先ほども触れた教員の数です。新獣医学部は当初、教員を海外からも招しよう聘へいしようと考えました。しかし大学設置・学校法人審議会から却下されたため、何とか国内で70名以上の教員を集めました。しかし、同じく獣医学部新設を目指していた京都産業大学は教員を集めきれずに新設申請を断念した、というのが真相です。
新たにもう1校作るとすれば、教員養成のための時間がかかります。少なくとも、あと数年はかかるのではないでしょうか。
さらに教員数で言えば、新獣医学部は大学設置・学校法人審議会から、既存の獣医学部・学科よりはるかに多い「70名」という厳しい条件を付され、何とかクリアして開学にこぎつけました。これにより、既存の学部・学科よりも学生が学ぶ環境としては頭1つ飛び出したことになります。
加計学園をモデル校に
それでも新設を目指したのは、新獣医学部が獣医師のなかにある固定観念を打ち破るためのモデル校になるべきだ、という考えもあったからです。教員数や施設・設備など、十分な教育環境で学んだ学生たちが6年後、社会に貢献する人材となりえているかどうか。モデルである以上、既設校に負けない優秀な学生を出さなければならないでしょう。
さすがにあり得ないだろうと思いつつも危惧しているのは、新獣医学部の卒業生たちが将来、就職等の際に、出身校で何らかの差別を受けるようなことがあってはならないという点です。これだけメディアで「加計学園」の名がマイナスイメージで流布されてしまったことを考えれば、まったくの杞憂とも言い切れません。
卒業生が獣医師免許を取得したあとは日本獣医師会に入会して、現場でも他大学の卒業生と協力し、日本や世界の食の安全と健康の維持のために尽くしていかなければならない「仲間」です。お互い、わだかまりはあるでしょうが、この6年の間に日本獣医師会と加計学園の関係を改善するのも、私の1つの大きな仕事かもしれません。
他の大学が、新獣医学部に課されたのと同様のレベルの教育環境を整えることができれば、日本の獣医学のレベルはいよいよ世界レベルを目指せるというわけです。
日本獣医師会をはじめ、獣医師や獣医学関連教員たちも、世界の情勢と日本の現状についてはよくわかっているはずです。獣医師会も、OIEやWHOといった国際機関が提唱している「ワンワールド・ワンヘルス」といった考え方や、人畜一体で考える健康の在り方については理解し、努力してもいます。
ですから、私のような考えと日本獣医師会の姿勢は必ずしも敵対するものではなく、「日本の獣医学を世界レベルにしたい」という同じ山を登ろうとしてはいるが、その道筋が違うのだと理解しています。