「表現の自由」を巡る問題ではない
しかし、これらの問題は断じて表現の自由を巡る問題ではない。何がアートとして認められ、認められないかという議論でもない。政府が公認したり、公的支援を決めたりする際に、認定基準にしたがってきちんと審査をしたか、という問題に過ぎない。
つまり、デューデリジェンス(以下、デューデリ「リスク回避のためにガイドラインなどが守られているかを検証すること」)の問題なのだ。そこをはき違えて、表現の自由云々の議論に拘泥してはならない。
たとえば、会田誠という作家は東京藝術大学を出ており、高い技能を有しているはずだが、私は会田氏の作品を芸術だと思わないばかりか、見ると本当に気分が悪くなってしまう。政治的に偏向しているというよりも、暗い性的倒錯を感じ、思わず目を逸らしてしまう。
会田氏自身、他人の神経を逆なでにすることを承知で制作していると述べている。巨大なゴキブリと人間の女性の性交を撮ったフォトをはじめ、とても文章で記述する気にもならない。
2008年、飛行機雲で広島上空に「ピカッ」の文字を描いて話題になったアーティスト集団「チンポム」(Chim↑Pom)も、私の感性では受け入れられない。
彼らが「表現の不自由展」や「Japan Unlimited」に出品した「気合い100連発」(震災後の瓦礫のなかで、被災した若者たちと円陣を組んで、アドリブで声出しをするビデオ作品。終盤、「被曝最高」 「放射能が出てるよ」 「もうちょっと浴びたいよ」と声出しし、批判を浴びた)という作品は、福島をはじめとする被災地を冒瀆しているという誹りを免れないだろう。
気合い100連発|コレクション|森美術館-MORI ART MUSEUM
芸術か否かは不毛な議論
そもそも、不適切と見なされなければ表現の不自由展に含まれるはずもない。
それ以外の彼らの作品を検索してみたが、女性メンバーがピンク色のゲロを吐き続ける映像や、水野という男性メンバーが、防犯カメラのついた部屋で21日間にわたって野生のカラスとネズミと生活し、10日後に死んだカラスを食べ、剝製にすることで弔ったという記録など、ここに書いているだけでも吐き気を覚える。
これらの作品を芸術と見做すことは私にはできない。しかし、「何をいうか、立派な芸術の一分野だ、賞も取っているではないか! お前にその価値がわからないだけだ!」と反駁する人々が必ずいるだろう。
芸術か否か、その議論に踏み込むのは不毛だ。