校内暴力や登校拒否で学校は荒んでいた
尾崎豊と私は同い年である。
若者の間でカリスマ的人気を誇った尾崎がこの世を去ったのは1992年4月25日。あれから30年以上の年月が流れた。30年はそれなりに長い年月だ。街の風景もすっかり変わり、日本は長い停滞の末に先進国の座から転落しようとしている。それどころか、外国の属国になり果てる日が近づいている。
我々が中学生だったころ、校内暴力や登校拒否で学校は荒んでいた。「3年B組金八先生」の第1シーズン、第2シーズンがリアルに同時進行していたのだ。高校に進むと、校内暴力はなかったが、しらけたムードが教室を支配していた。きっと同世代の人でも、楽しい高校時代を今でも懐かしく思い出す人もいるのだろう。
しかし、私にとって高校の3年間は捕虜収容所で過ごしたように感じる日々だった。人間は苦痛に感じる月日の記憶を本能的に消し去ろうとするらしい。ある友人は、離婚した前後の記憶が飛んでしまい、空白になっているそうだ。私も自分が何年何組にいたのか、全く思い出せない。
覚えているのは教室に充満したしらけた空気だけだ。生徒は教師を尊敬しておらず、教師も機械的に知識を授けるだけ。個性や独創性は評価されず、膨大な知識をひたすら詰め込んで、所定のタイミングで効率よく吐き出すトレーニング。その習熟度を偏差値と呼ばれる数値で示す。
それが得意な人間が頭がいいとされる。それも能力のひとつだが、そのようなあり方に疑問を持たない従順な人間が有利になるシステムだ。
かくして、画一的なコピーのような人間が大量生産されていく。日本は規格大量生産の時代に繁栄のピークを迎えたが、規格大量生産に適した人間を規格大量生産していたのだ。規格外の人間にとって、これほど苦痛な空間はない。
「こんな教育とも呼べない教育をしていて、日本が将来没落しなかったら不思議なことだ」と真剣に思っていた。その懸念がいま現実となって目の前にある。
「先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか」
この時、私以外にも悶々としながら日々を過ごしていた同世代の2人の男がいた。
尾崎豊(1965年11月29日生まれ)と石井希尚(1965年2月10日生まれ)だ。言うまでもなく、尾崎はすでに他界し、伝説の歌手になっている。尾崎の歌を聞けば、尾崎がやはり画一的な教育に必死に抵抗していたことがわかる。
もっとも、尾崎の場合は小学校時代から登校拒否を繰り返し、中学校では喫煙で停学処分を受けているから、早くから反抗児路線を走っていたようだ。それでも高校は青山学院高等部に入るのだから、勉強はできた上に裕福な家庭だったことがわかる。
しかし、せっかく私立高校に入っても、尾崎の破天荒な性格は変わらなかった。喫煙やオートバイでの事故、さらには渋谷で飲酒の末に乱闘騒ぎを起こしてパトカーが出動したりと暴れ続け、ついに無期限停学処分となる。のちに停学処分は解けたが、自主退学となった。そんな破天荒で自滅的な尾崎はしかし、高校在学中の1983年、シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』で鮮烈なデビューを飾り、やがて全国に名が知れ渡った。
偏差値に偏重する無味乾燥な管理教育に辟易としていたのは尾崎も私も同じはずだった。しかし、当時の私は、大人を責めても仕方がない、なぜならば、大人もまた現在の社会構造に組み込まれた存在に過ぎず、その社会構造を変革しない限りは解決できないと考えていたからだ。だから、人のバイクを盗んで暴走したり、夜の校舎の窓ガラスを壊して回ったりするのは馬鹿げたことだと思っていた。