歴史小説の醍醐味とは
──この作品からは、登場人物の人間的な情緒が伝わってきます。そしてそれは、いまの私たちとも通じるところが大いにありますね。
安部 そうですね。それがなければ、小説である意味はないのではないかと思うんです。これまでの史観に乗っかって書くだけでは、講談や軍記物の世界から抜けることはできない。大事なのは、「人間はどう生きたか」というところです。
──女性たちも自らの意思を持ち、生き生きとした姿で描かれています。
安部 「男性の意思に翻弄される女性」という描き方もステレオタイプなものですが、これも江戸時代の儒教史観からくるものです。良妻賢母主義を説く「女大学」的な見方で女性を描けば、たしかに時代性がよく描かれているかのように思われるかもしれない。
しかし実際はそんなことはなくて、当時の女性たちが書いた手紙を読んでみると、いまの我々と全く変わりません。歴史小説が現代に書かれる意味はそこにあって、いまの私たちが読んでも十分に納得できる形でなければなりません。
歴史小説の難しさは、歴史に引きずられ過ぎると人物が立たないし、人物を思うように動かそうとすれば歴史を無視せざるを得ないところもあるという点です。そのバランスをどうとるか。これはもう、長年の経験と努力でしょうね。
──そのバランスのなかで描かれる信長と家康の関係性も非常に面白い。信長の考えを聞いてもピンと来ていない様子の家康に対し、信長が「腐った魚を見るような目」を向ける。
安部 信長というのはそういう男ですよ。天才ですから、「お前の理解もその程度か」と思えば侮蔑の対象になる。デキない奴は腐った魚と一緒です(笑)。
──しかし、その直後にみたらし団子を振る舞ったり、一緒に風呂に入って背中を流してやったりと、家康に対しては冷徹なだけではない面が描かれています。
安部 6歳から8歳までの間、人質となっていた家康を信長は見ていますからね。「こいつ、かわいいな」という思いがどこかにあったのではないでしょうか。
──大航海時代という国際情勢や商業権益や流通を押さえたものが勝つ、という点についても、家康が信長から学んだ部分は大きい。
安部 はい。本にも書きましたが、桶狭間で負けた家康は、何とか岡崎城で独立した。これから東三河をどう統治するかという時に、最初は今川に属して守護領国体制のなかで生き残ろうとした。しかし、その今川が桶狭間で信長に敗れるわけです。
信長は、伊勢湾海運を押さえて巨大な富をんでのし上がってきた。家康の伯父にあたる水野信元も知多半島の港を押さえているから、信長とは港を利用し合う関係。その水野信元の仲介で信長と清洲同盟を結び、この段階で家康は領国経営の「もう一つの方法」を知ったんでしょう。
間違った歴史観に一撃
──その家康の覚悟について、印象的な一文がありました。〈青年のうちに高い理想を持ちえないものは、生涯にわたって現実に引きずられた低い軌道で生きていくだけ〉。これは安部さん自身のお考えでもありますか。
安部 そうです。それこそが、まさに私が小説を通じて果たそうとしていることです。具体的に言えば、一つは、ここまでにも触れてきたように、日本人のこれまでの歴史観を壊すこと。なぜ壊さなければならないかというと、間違った歴史観が間違った意識をつくっているからです。
もう一つは、これは最終的な理想ですが、私の小説を読んで「救われた」と思ってくれる人が出るようなものを書きたいということです。なぜ作家を目指したかというと、つまるところ、小説によって私自身が救われたからなんです。
まさに、家康が登誉上人に救われたように、私は戦後無頼派の小説に救われました。だから私自身も、こんなふうに人を救うことのできる仕事をしたい、と思って作家を目指したのです。
人間は、時間軸と空間軸に縛られています。どの時代に、どこに生まれたかによって、意識と生き方がほぼ規定される。そのなかで人々がどう生き、課題を乗り越え、次の時代を生み出してきたのか。
人間の生きざまを読むことによって、読者が作品を読んで「私の抱えている悩みと一緒だ」 「彼らはこんなふうに乗り越えたのか」と納得してくださったら、一つの袋小路を抜け出すきっかけになるんじゃないか。そう思ってもらえる作品を書くことが作家としての理想であり、志です。
──その作家人生の「集大成」と仰っているのがこの『家康』。今回は第一巻までのお話でしたが、この先もとても楽しみです。
安部 第二巻に収録される部分は、来年(注:2017年)2月から新聞連載がスタートします(岐阜新聞他)。10カ月かけて連載し、一冊の本にまとめるというペースを、完結までにあと4回繰り返すことになります(注:単行本版のペース。現在は文庫のみでの発刊)。残りの人生を賭けた、まさにライフワークですね。のちに、「家康を書いて死んだ」と言われるくらいの気持ちで取り組みたいと思います。
(取材・構成:梶原麻衣子)