安部龍太郎(あべ りゅうたろう)
1955年福岡県生まれ。久留米工業高等専門学校卒業。90年『血の日本史』でデビュー。2013年『等伯』で第148回直木賞受賞。20年第38回京都府文化賞受賞。『信長燃ゆ』『信長はなぜ葬られたのか』など著書多数。
戦国時代は高度成長期
──450ページ(注:単行本版)、一気に読みました。家康の人物像をはじめ、戦国時代の時代背景、合戦の解釈に至るまで、非常に新鮮な描かれ方でした。
安部 ありがとうございます。
──戦国時代をテーマに作品を書かれてきた安部さんが、なぜいま、徳川家康に取り組まれたのですか。
安部 30年近く、織田信長を研究し、戦国時代に関する小説を書いてきたなかで、次第に徳川家康という人物が魅力的に見えてきたというのが一つ。そしてもう一つは、家康が桶狭間から大坂の陣まで、つまり戦国史のすべてを生きたからです。
家康を中心に戦国時代を描けば、その時代を俯瞰してみることができる。さらに家康はその経験を次の時代に転換させ、250年にも及ぶ江戸時代の礎を築いた人物でもあります。長く戦国時代をテーマにしてきた私としては、最後は挑戦しなければならない人物だと思いました。
──まず「時代の俯瞰」という点から伺いたいと思います。従来、戦国時代は領地という「面」の取り合いだと一般的には認識されてきました。しかし今回の作品は、経済の流れや流通を意識し、その拠点を押さえることの重要性が信長をはじめとする大名たちの言動を通じて書かれています。
安部 長く戦国時代について調べたり考えたりしているうちに、日本の戦国史の認識が基本的に間違っていたことに気付いたんです。その原因は、江戸時代の史観によって解釈された戦国時代の認識がいまも続いてきたことにあります。
一つは、士農工商の身分制度。その固定観念があったために、戦国時代についても流通業者や商人の活躍がほぼ無視されてきました。結果、大名たちが戦っていたのは港や街などの流通拠点を押さえるためだったという点も見落とされてきたのです。
そしてもう一つが、鎖国史観。江戸以降の歴史観は基本的に鎖国を前提としており、戦国時代も鎖国的な価値観、つまり国内で完結した形で語られてきた。そのため、戦国時代に盛んだった外国との交易や技術の伝播については注目されないままでした。
実際には、戦国時代は世界の大航海時代に当たります。スペインやポルトガルなどがアジアに進出すると、イギリスやオランダもあとを追った。日本にもその波が押し寄せていた。いまのグローバル化と全く同じ事態に直面していたのです。その背景のなかで、日本に宣教師がやってきて、鉄砲が伝来したんです。
日本も石見銀山から銀が大量に産出されるようになり、いわば・シルバーラッシュ・の時代でした。南蛮との交易で、海外の品々も国内に大量に流れ込んできた。日本は未曾有の高度経済成長期でした。その証拠が巨大な城の建設ラッシュであり、安土・桃山時代の豪華絢爛な文化の隆盛だったのです。
──教科書的な日本史では「幕末に黒船が来て、ようやく日本は西洋と本格的に接点を持った」ように思いがちですが、その認識が一変しました。
安部 1543の鉄砲伝来を西洋との接点の始まりだとしても、鎖国が始まる1630年までに90年間もあった。90年というと、明治維新から昭和20年の間よりも長い期間です。その間、日本はグローバル化の影響を受け続けていて、結果として90年後に鎖国を選んだんです。
このグローバル化にどう対応するかが、当時の信長、秀吉、家康が直面した課題だった。その課題は、貿易の実利と軍事物資の入手をどうするかという、いまの日本が直面している課題と全く同じです。「国を開くか、閉ざすか」は、いまに限らず日本にとって永遠のテーマなんですね。
そして経済や貿易が盛んだった戦国時代は、輸入ルートや流通を押さえた人が勝った。その事実を知れば、戦国史が一変しますよね。守護大名制がなぜ崩壊したかもわかります。それは農本主義的な体制だったからで、もちろん、軍勢の供給地としての農地は重要でしたが、領国や石高、つまり農本主義の発想から抜けられなかった守護大名たちは、時代についていけなかった。
一方で、南蛮貿易が始まり、高度経済成長をしていくなかで、流通にかかわり、港や街道を押さえた大名たちが台頭してきた。戦国時代は重商主義だったという前提がなければ、守護大名たちが滅びた理由も、大名たちが天下統一を目指した理由もわからない。それは、国取りなどではなく、「商業、流通圏を統一する」という意味だったんです。
それなのに、江戸時代に作られた史観を、明治維新後もほとんど是正できなかった。そして、それはいまも続いているのです。
徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)