信長はスペインに学んだ
──家康が信長と一緒に、ルイス・フロイスからどのように日本までやってきたのかを地球儀を見ながら聞く場面では、「世界史のなかの日本」を強く意識させられました。家康と同時体験をしながら、当時の国際情勢を教わった気分でした。
安部 フロイス自身、ポルトガルから非常に長い旅をして日本に辿り着いています。私は先日、ポルトガルに行って、彼らが出港したリスボンの港に立ちました。フロイスは17歳でリスボンを離れ、64歳で長崎で亡くなるまで、一度も国に帰っていない。
実際に足を運んでみると、フロイスの『日本史』に対する読み方も変わってきます。「そうか、17歳でこの地を離れ、遙か遠い異国の日本までキリスト教を広めるために来たんだな」と思うと、彼の信念が伝わるようでした。
──信長の、鉄砲隊と槍を組み合わせた戦術が「イスパニア(スペイン)のテルシオ部隊に学んだものであった」との記述には驚きました。これまでは、信長の独創性によって鉄砲をうまく使ったと言われていましたが。
安部 鉄砲という新兵器が入ってきたときに何が起きたかを考えてみる必要があります。いまだって、海外から新しい商品が入ってくれば使い方も一緒に学ぶはずなんです。それと同じことが、当時も起きていたと考えるほうが自然です。
日本が鉄砲を手にするより遙か以前から鉄砲を使っていたヨーロッパは、それを使った戦術や築城技術に長けていた。宣教師のなかには軍事顧問団のような人もいましたから、そこで学んでいるんです。
安土城考古博物館には、「三間半柄の槍」と言われる6メートルもの槍が飾られています。『信長公記』には「槍は長いほうが有利」と書いてありますが、ここまで長くては従来の方法では使えませんよね。
──長い槍は刺したり振り回したりするのではなくて、立てた状態から敵の頭上に振り下ろすんだという解説を見たことがありますが……。
安部 それも3メートルがせいぜいでしょう。では、6メートルの槍をどう使ったのか。それが本にも書いた、テルシオ部隊の戦法なんです。鉄砲隊を長槍隊が囲んで槍衾を形成し、弾込めの間、敵の接近を防ぎ、その隊形を保ったまま前進していく。そういった戦法を、信長は鉄砲と一緒に入手していた。
──鉄砲という物資だけでなく、情報も戦局を左右したんですね。
安部 鉄砲が戦国時代を生み、鉄砲を活用する術を身につけたものが勝ったのです。
活用においては、もちろん流通も影響してきます。火薬の原料である硝石はほぼ100%、弾の原料である鉛も80%が輸入に頼っていました。それをどうやって手に入れるかに大名は頭を悩ませてきたし、それができた人が勝ち残った。
「飛び道具とは卑怯なり」というのは、流通を押さえられなかった人の言い分であり、さらに言えば、平和な時代になった江戸時代に鉄砲を持たなくなった人たち、持たせないようにした人たちの感覚によるものです。
──クライマックスの三方ヶ原の戦いも、従来の解釈とは異なっています。通説では、「老獪で戦上手な武田信玄に手玉に取られて、若き徳川家康が大敗した」という構図でした。
安部 従来の見方は非常に講談的、軍記物的で、人間的リアリティがありませんでした。この時、家康は31歳で、現在で言えば40代中盤くらいの中堅どころ。決して若手ではありません。直前には外交戦で信玄に勝ってもいて、経験も力量もかなり積んだ状態でこの合戦に臨んでいます。その家康が出陣するからには、ある程度の勝算はあってのことだろうと考えました。
実際に戦場の跡地にも足を運びました。浜松駅のレンタサイクル屋で自転車を借りて、家康が通った道を走ってみたのです。合戦時、どのような景色を家康は見ていたのか。どういう地形だったのか。走り回ってチェックして、どのように布陣していれば合理的なのかということを、身をもって確かめるのです。
そうすると、地図では分からなかったことが分かってきます。自分の身体感覚で地形をまなければ、戦う人たちのリアリティや、実際に人間の体がどう動いたのかということは理解できませんから。
『徳川家康三方ヶ原戦役画像』
「偉大なる凡人」の姿
──火縄銃も実際に撃っていらっしゃるとか。
安部 縁あって、駿府鉄砲衆の足軽をしています(笑)。鉄砲を打つ手順を自分で覚える必要があるわけですが、実際にやってみると、「これで雨が降ったら大変だぞ」と分かる。火薬が濡れてしまったら、筒のなかを掃除して乾かし直さなければなりません。戦場でそんなことをやっていたらすぐに敵にやられてしまう。実際に体験してみると、そういったちょっとしたことが命を左右するのだと身を持って分かるんです。
──家康の魅力についても伺います。家康は「幼い頃から苦労して、我慢して我慢して最後に報われた人」とされがちですが、第一巻で描かれている19歳から三方ヶ原までの間でも、それに留まらない非常に魅力的な人物像が伝わってきます。
安部 家康という人物は、江戸時代には「神君」と呼ばれ、神のような存在として語られてきました。しかし明治以降は、江戸幕府を否定する教育方針を取ったせいで「タヌキおやじ」にされてしまい、その人物評価がやはりまだ続いています。
しかし、私はそのいずれも間違っていると思っています。「人間・家康」を素の姿にすると、どういう人物として浮かび上がってくるのか。家康は「偉大なる凡人」と言えるのではないでしょうか。
向上心も強いけれど、「反省力」も強い。たくさんの苦労を乗り越えて、その反省を活かしながら成長し、最後には江戸幕府250年の世の平和の礎を築く。世界史上、唯一と言っていいほどの偉大な功績を成し遂げた人物です。
どうして「凡人」がそれほどまでに「偉大な」人物になることができたのか。これを、神でもタヌキでもない「人間・家康」の現場から物語にしていこうというのが、この作品の最大のテーマです。
──19歳の家康が、家臣を生かすために切腹を決意するものの、登誉上人に止められて思い直す場面が非常に印象的でした。この経験が、家康の人格や人生観の形成には大きかったのではないでしょうか。
安部 そうでしょうね。10代の終わり頃というのは人生で最も多感な時期で、死を意識したことのある人も少なくないはずです。その悩みが深刻であればあるほど、学ぶものも大きい。
家康は登誉上人から、「厭離穢土、欣求浄土」の教えを受け、再び立ち上がります。「厭離穢土、欣求浄土」とは、「汚れた地を離れ、極楽浄土を求め祈る」ということ。戦乱の世を治め、安定した平和な社会をつくりたいと決意したのです。
──自らの馬印にまでしていた。
安部 なみなみならぬ決意です。この教えがあったからこそ、我慢強く、一度裏切った家臣であっても許して受け入れることができたのでしょう。自分が苦労しているから、人の痛みもよくわかる。非常にやさしい男だったと思います。
──自分と同様、人質に出されていた子供たちに対する情愛も深い。しかし歴史の行く末、つまりその後の家康と嫡男・信康の身に起きること(内通疑惑で信康を切腹させる)を知っている私たちとしては、その情愛の深い描写に切なくなります。
安部 イギリスの詩人、ジョージ・ゴードン・バイロンが「人間よ、汝、微笑みと涙との間の振り子よ」と言っています。その振れ幅が大きいほど人間は魅力的なんです。喜びと悲しみの振れ幅を大きく描くのはドラマツルギーの基本でもあり、小説家の力量が問われるところでもあります。