母親は満州で生まれ育ちました。母がいた撫順あたりは戦時中も比較的平和で、物も豊かだったそうです。母の生家は大きな寺で、満人の使用人に可愛がられて幸せに育ちました。終戦後、ソ連兵がなだれ込み、呼応したかのように朝鮮人の暴動が始まりました。そこからが地獄だったと言っていました。
当初、母の寺では逃げて来た日本人を匿っていました。ソ連兵には囚人上がりが多く、あちこちに引き裂かれた日本人の死体が転がっていたそうです。その殺し方は、それは惨たらしいもので人々は恐怖に震えあがっていました。その中に、若い女性がいました。
逃げ出した時には赤ちゃんを連れていたそうですが、泣き声でソ連兵に見つかったらその場にいる全員が殺される――。結局、彼女は乳飲み子を自らの手で殺さざるを得なかったそうです。無残な殺され方をするよりはせめて自分の手で、という気持ちがあったのかもしれません。
中国残留孤児についても母は「日本人ではなく中国人としてなら生きていけるかもしれない」と我が子を泣く泣く中国人に引き渡したケースが多かったと言っていました。せめて命だけは助かってほしい…。多くのお母さんたちがそう願ったのでしょう。
はじめの頃は匿っていた側でしたが、ソ連軍や八路軍の侵攻が進み、結局は母の一家も寺を捨てて逃げることになりました。終戦時、母は12歳。髪を切って顔に煤を塗り、男の子の格好をして逃げたそうです。
もし、ソ連兵に見つかった場合、女性だとわかるとトラックで連れて行かれて暴行や強姦、虐殺されるという話も聞いていました。逃げる途中で小さな妹は栄養失調と衰弱で亡くなりました。混乱の中でたくさんの命が残酷に踏みつけられるさまを、幼い母はたくさん見聞きしたと言います。
遠目に舞鶴港が見えた時は、船中のみんなで泣いたそうです。母には生まれて初めて見る国でしたが、これが日本だと心の底から嬉しかったとうっすら涙を浮かべていた顔を今でも覚えています。
「戦争は負けたらダメだ。外国には住むな。外国人を絶対に信用するな」
これは生前の母が繰り返していた言葉です。当時は過激に思っていましたが、今思えばそんな悲痛な経験があってこその発言だったのだなと思います。
ロシアと休戦協定は結べない
連日報道されるウクライナの惨状は、この体験談に重なる。首都周辺のブチャでは多数の民間人の死体が見つかった。マリウポリで発見された3つの集団墓地でも同様だ。ドネツク州では奪還したリマンでも、多くの人が殺害されたと見られる2つの集団墓地を発見したという。
ソ連がロシアに変わっても、国際法では認められない民間人の大量虐殺が今もなお行われている。ロシアは約束を守る国ではない。休戦協定が結べない理由はここにある。
ウクライナは全てのウクライナ国民を救う最善の方法として、武力でロシア軍を追い出す選択肢を選んだ。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、日本も自らのことと考え、憂慮しなければならない事態だ。戦争は望まなくても一方的に開始されるものであり、相手が常任理事で核保有国だと国連や欧米諸国も直接的な軍事介入を躊躇すると証明された。
ウクライナと同様にロシアと領土問題を抱える日本はロシアの脅威をも認識し、備えなければならない。長年に渡る防衛予算不足で、兵站、装備、人材とあらゆる面で自衛隊は脆弱だ。反撃能力(敵地攻撃能力)などもほとんどない。
ロシアに破壊の限りを尽くされる恐怖を現実に経験しないよう、可及的速やかに防衛力を立て直すしかない。