騒擾の時こそ、危機が訪れる
2022年6月3日にこの連載で紹介した木下健、オフェル・フェルドマン『政治家のレトリック』(勁草書房)に、こんな趣旨の一文があった。
イスラエル右翼指導者たちが、パレスチナと和平を結ぼうとしたラビン首相を「ナチス」呼ばわりしたことで、右翼によるラビンの暗殺が可能になった。
つまり、「ナチス」や「ヒトラー」とされたものは、時と場合によっては「亡き者にされてしかるべき存在」とみなされてもおかしくない、ということを意味している。
筆者はこれをツイッターで引用し、〈日本でも政敵を安易に「ナチス」「ヒトラー」になぞらえる人がいるが気を付けないと〉と記載した。
今回の事件は今のところ、犯人の供述から「宗教関係のうらみであり、政治思想による犯行ではない」とみられている。だが、犯人が本心を語っているかも、また客観的に検証可能な動機が明確な形で公開されるかも、今の時点ではわからない。
「反安倍の風潮が、事件を引き起こしたのだ」と断言し、糾弾するつもりは一切ないし、それを言うなら、いわゆる保守側も、政敵を「ヒトラー呼ばわり」してきたのは事実だ。
だが、それでも世の中には「(それが事実か否かは問わず)悪魔のようなやつ、とみなしたものなら命を狙われても仕方がない」と思い込む人もいる、という大前提は、やはり知っておくべきだろう。
それどころか、無差別殺人犯ともなれば、何の思想もなく、ただ「人生がうまくいかず、自分が刑務所に入りたかった」だけ、「相手がただ狙いやすかった」だけで無関係の人が襲われてしまう。どうしたらそうした事件を防げるのか、治安だけでなく考えなければならないことは多い。
前代未聞の騒擾、こうした時こそ、内外からの影響力工作が効きやすくなる。特に国防、外からの脅威に備えてきた安倍元首相の死によって、よもや日本の情報環境が内外からの悪質な影響を受けることは、なんとしても避けなければならない。