安定していた第5共和制
ドイツ占領下でファシズムが台頭すると、旧き良きヨーロッパの再興を期待するエスタブリッシュメントの一部が支持してビシー政権を握り、多くの既存政治家も参加した。
だが現代のナポレオンともいえるドゴール将軍が抵抗を呼びかけ、ソ連参戦後は左派も合流。戦後は対独協力派が追放され、共産党を含む挙国一致政府が成立した。
やがて東西冷戦のあおりで共産党が政権を離脱、強力な首相権限を否定されたドゴールも野に下り、比例代表制の選挙で小党分裂となり政権も短命となった(第四共和制)。
ところが、アルジェリア独立問題で行き詰まり、ドゴール将軍が復帰。直接選挙(上位二候補の決選投票)で選ばれる大統領が巨大な権限を持つ第五共和制となり、それを肯定するドゴール派(ドゴールの後継者はポンピドー大統領)が右派の代表になった。
権限の制限を要求する中道派や左派と対立したが、やがて、ジスカールデスタン(中道派)、ミッテラン(社会党だが共産党も強力)が大統領となり、第五共和制はしだいに安定していく。
議会は比例代表制から小選挙区二回投票に変更され、多くは大統領与党が過半数を占めるが、野党が過半数を占めると、外交・国防は大統領、内政は首相と役割分担している。
その後、ドゴール派(共和党)と社会党がEU統合を推進し、NATOの軍事機構にも復帰したが、右派のうちそれらに否定的な勢力が台頭し、極右と呼ばれた。マリー・ルペン(マリーヌの父)が創立した国民戦線(FN)が典型だ。また環境派も台頭した。
しばらくは、ドゴール派と社会党、それに国民戦線と共産党が有力大統領候補を出すパターンが続いた。ルペンは二〇〇二年に大統領選決選投票に残ったが第一回投票の一七%から上乗せできず一八%の得票に留まった。
マクロンは成功した玉木雄一郎
この政治地図を変えたのがマクロンの登場だ。マクロンはENA(国立行政学院)出身の官僚で社会党員だがロスチャイルド系銀行に天下っていた。社会党のフランソワ・オランド前大統領は当初、米国系金融資本と対立していたが行き詰まり、修復を狙って閣僚に起用した。
マクロンは、経済政策では新自由主義、社会政策では左派的観点も重視する路線を提案したが、社会党内の反対で貫徹できず離党。中道派や環境派、それに共和党(旧ドゴール派)の一部を取り込んで大統領選挙に打って出た。いってみれば、玉木雄一郎国民民主党代表が公明党や自民党リベラル派を糾合したようなものだ。
この作戦が成功し、二〇一七年の大統領選挙第一回投票では、共和党と社会党の候補が沈んでマクロンが一位となり、二位には父の跡を継いだマリーヌ・ルペンが食い込んだが、決選投票ではほぼダブルスコアでマクロンが勝利した。
マクロン大統領の、日本で言えば維新の党に近い路線の強引な経済財政改革は反発を招いたが経済は堅調でドイツを上回る成長率となった。
コロナ対策ではワクチンの事実上の義務化と接種者への大胆な規制緩和という賭けが成功していち早く流行を終息させ、外交ではウクライナ紛争でもリーダーシップを発揮、今回の大統領選挙の第一回投票で上から目線を批判されつつもトップを維持した。
一方、ルペンは支持拡大を図るため「脱悪魔路線」をとり、EU脱退などの極右路線を放棄、党名も国民連合とした。反対する父親を除名したのが功を奏し、今回の選挙では、第一回投票で二三%、決選投票では四一%を獲得した。
ウクライナ紛争でも、プーチンと親しかったことが不利に作用するとみられたが、躊躇なく侵攻を批判したうえで、国民生活への影響を避けるために石油・ガスを制裁対象から除外すること、停戦後はロシアも入れた新欧州秩序を提唱し票を伸ばした。
この二人以外の候補では、右派では親日的な二人の候補が一時ブームをつくったものの沈没した。共和党の女性候補ヴァレリー・ペクレスはマクロンと同じENA出身の官僚でソニーでの研修経験もあり日本語堪能だ。
党の予備選で勝ち、今年の初めにはマクロンと決戦投票になれば接戦といわれたが、カリスマ性の欠如とウクライナ問題で反露的に傾きすぎたなどマクロンと違いがはっきりしない路線で五%以下の得票に沈んだ。
もうひとりフィリップ・ゼムール候補はルペンが中道に傾きすぎているとして決別し、「日本のような厳しい移民規制」を主張したが、政治経験のなさでボロが出た。
左派では社会党から離脱した極左的ポピュリスト「不服従のフランス」のジャン=リュック・メランション候補(山本太郎が立憲民主党の党首になったイメージ)が二二%で第三位に食い込み、パリ市長で東京五輪閉会式にも出席した社会党アンヌ・イダルゴや共産党、環境派の候補を蹴散らした。共和党と社会党という二大政党が、法定得票数五%に達せず、数億円の供託金を没収されたのである。