宮本氏は、「敵の出方論」の意義を次のように強調している。
「革命が非流血的な方法で遂行されることはのぞましいことである。…(略)…しかし反動勢力が弾圧機関を武器にして人民闘争の非流血的な前進を不可能にする措置に出た場合には、それにたいする闘争もさけることができないのは当然である。支配階級がその権力をやすやすと手ばなすものではけっしてないということは、歴史の教訓のしめすところである。われわれは反動勢力が日本人民の多数の意思にさからって、無益な流血的な弾圧の道にでないように、人民の力をつよめるべきであるが、同時に最終的には反革命勢力の出方によって決定される性質の問題であることもつねに忘れるべきではない」(1957年7月7日、綱領問題についての中央委員会の報告 宮本『日本革命の展望』)。
志位委員長のウソとごまかし
嘘だらけ(志位委員長のツイッターより)
志位委員長は最近、この「敵の出方論」について、今後は「この表現は使わない」などと言い出した。
「『敵の出方』という表現だけをとらえて、日本共産党が、あたかも平和的方針と非平和的方針の二つの方針をもっていて、相手の出方によっては非平和的方針をとるかのような、ねじ曲げた悪宣伝に使われるということで、この表現は、2004年の綱領改定後は使わないことにしていることを明らかにしました。この表現は使わないことを、中央委員会総会の決定としても、明確にしておきたいと思います」(2021年9月9日、第3回中央委員会総会への幹部会報告)。
しかし、「敵の出方論」はそもそも共産党の側がどんな方針をとろうが関係のない話である。革命が平和的に進むか、非平和的(暴力的)な事態に発展するかは、共産党ではなく「敵」の態度が決めることだから「敵の出方」が問題にされるのである。
だから「敵の出方」という表現をやめるというごまかしをしたところで事態は何も変わらない。
もちろん「敵の出方論」の問題で注目されるべき点は表現の有無ではなくて、「敵」が革命を強制力(武装力、暴力)で抑え込もうとする出方になったときに、共産党は実際にどういう態度をとるのか、ということである。
共産党側も武力で抵抗するのではないか――こうした予測が当然成り立つ。これこそが公安調査庁が共産党を調査し続ける理由であり、「『敵の出方論』に立った暴力革命の方針に変更はない」という政府見解の根拠になっている。
共産党が、「敵」の暴力に対しても暴力を用いないことを証明できれば、公安当局や政府が主張する「暴力革命の党」の認識も根拠を失うことになるだろう。
先に述べたように共産党には武装力はない。しかし革命運動が国家権力の強制力によって弾圧される場面になれば、いわば「やぶれかぶれ」のさまざまな抵抗がおきることは十分に予想される。そうした抵抗活動を「暴力革命」と呼ぶことに私は賛同できないが、公安当局はそう見ている。
共産党が「暴力革命の党」のレッテルを剥がすには、「敵の出方」の表現をやめることよりも、「暴力が発生する事態になったら革命はあきらめます」くらいのことを宣言する必要があるかもしれない。
もちろんそんなことを宣言したら革命政党ではなくなる。
ところが志位委員長は「どんな場合でも、平和的・合法的に社会変革の事業を進めるということが、日本共産党の一貫した立場です」(2021年9月10日のツイッター)と言いはじめている。これは矛盾に満ちたウソとごまかしの発言である。