政権奪還から2年後の2014年にはほぼ全ての高台移転を着工し、同年には75%の造成が完了、昨年12月に移転は100%終えました。
インフラの復旧・復興も着実に進展しており、たとえば総延長約550キロの復興道路・復興支援道路は、全体の9割が開通または開通見込みとなっています。
原子力災害においても、一部の帰宅困難地域を除き全ての避難指示が解消されました。また、我々が政権に就いた当時は仮設住宅に30万人以上の方がお住まいだったのですが、岩手、宮城両県では今年度中に仮設生活は解消されます。
生業に関しても、2014年の段階で農地75%の作付けが可能となりました。被災地の農林水産物に対して輸入規制を行っていた国々に対しては外交努力を積み重ね、54カ国から15カ国にまで減らしました。引き続き、輸入規制国ゼロにすべく努力を重ねています。
東北三県の製造品の出荷額は、震災前の10兆8000億円から12兆6000億円(平成30年)まで増え、東北六県の外国人ののべ宿泊者数も発災前の50万人から155万人(令和元年)にまで増えました。 福島イノベーション・コースト構想も、それぞれ具体的な成果が出ています。
7年8カ月、総理大臣として、のべ43回にわたり被災地に足を運びました。復興の進展を継続的にこの目で確かめるなど、私自身が「現場主義」を貫き対処できたと思っています。
何とかオリンピック・パラリンピックを
いま様々な議論がある東京オリンピック・パラリンピックについても、「復興五輪」にするということを世界に宣言してきました。震災に対して国際支援の手を差し伸べて下さった多くの国々に対して、震災から見事に立ち上がった日本の姿を示すことで、その恩返しがしたい。
過酷な震災のあと、多くのアスリートが来日し、多くの人が勇気と希望を与えられました。ブエノスアイレスでオリンピック招致のプレゼンテーションをした際、私は被災地を訪れた際の感動した出来事を話しました。
被災地を訪れた外国人のサッカー選手からもらったサッカーボールを宝物のように自慢げに示す一人の少年に出会いました。その際、私はこのボールは少年にとっては単なるボールや宝物ではなく、希望、未来への希望であると思ったのです。この瞬間にも、福島の青空の下で、子供たちがボールを蹴りながら、復興、未来を見つめている。
私は、これこそがスポーツの持つ力だといたく感動しました。プレゼンテーションでは、そのスポーツの力を示す東京オリンピック・パラリンピックにしたい、と訴えたのですが、いまや新型コロナウイルス克服の意味合いも兼ねており、何とか実現できれば、と強く願っています。
これまで幾度となく「雄々しさ」を示し、困難を克服してきた日本人には必ずそれができる。私はそう信じています。(初出:月刊『Hanada』2021年4月号)
前内閣総理大臣。1954年、東京生まれ。1993年に衆議院議員に初当選。2006年に総理大臣に就任。2012年に総理大臣復帰を果たし、憲政史上最長の長期政権を築く。