震災から10年。いま改めて、震災に際して発せられた天皇陛下(現上皇陛下)のお言葉を思い起こさずにはいられません。
「何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。 自衛隊、警察、消防、海上保安庁をはじめとする国や地方自治体の人々、諸外国から救援のために来日した人々、国内の様々な救援組織に属する人々が、余震の続く危険な状況の中で、日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います」
「雄々しさ」とのお言葉から、明治天皇が日露戦争開戦にあたって詠まれた御製「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」と、昭和天皇が敗戦四カ月後に行われた歌会始で詠まれた「降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ」との御製を想起した人も多かったのではないでしょうか。
3代にわたって使われた「雄々しさ」というお言葉――明治、大正、昭和、平成と、日本人は幾度となく大きな困難に直面しました。しかし、そのたびに大きな底力を発揮し、人々が助け合い、力を合わせることで乗り越えてきました。まさに日本人の「雄々しさ」が示された。
そして、震災から47日目、天皇皇后両陛下(現上皇上皇后両陛下)が被災した宮城県南三陸町をご訪問され、瓦礫が広がる町並みを見つめられ、深々と頭を下げておられるお姿に、多くの国民は心を打たれました。1000年以上にわたって、ひたすら国民の安寧を祈り続けてこられた天皇家のお姿がそこにはあった。この圧倒的な歴史と伝統は、まさに日本の柱であり、心の拠り所であるということを多くの国民が再認識したのではないでしょうか。
と同時に、私だけでなく国民の多くが、「いまこそ雄々しく立ち向かわなければならない」との決意を新たにしたと思うのです。
政権奪還の原点
その決意の下、発災から約1年9カ月後の2012年12月に、我々は政権を奪還します。いわば、東日本大震災こそ政権奪還の原点とも言うべきものでした。
自民党は当時の谷垣禎一総裁の下で、大震災という国難に対応するため、国会を「休戦」状態とし、与野党の垣根を超えて、震災対応、復興政策について積極的に提案するなど、時の菅直人政権に対して協力姿勢で臨みました。
その結果、我々の政策提案は非常に多く受け入れられたのですが、一方で物事が一向に決まらず前に進んでいかなかった。行政を進めていくには、いわばリーダーシップに依るところが大きく、また行政機能が持つ能力を最大限発揮させるためには、それぞれの現場や持ち場の士気を高め一体となって取り組んでいく必要があるのですが、残念ながら当時の菅政権はひたすら議論を積み重ねるばかりで決められない政治に陥り、時に部下を激しく叱責するなど、現場の士気も低下していました。
たとえば、民主党政権下では1年以上が経ってもまだ被災地の住宅の高台移転に関する計画すらできていなかったのです。
遅々として進まない復興政策、決断できない政治のなかで、野党でいることの情けなさ、悔しさを自民党の全議員が噛み締めていました。 「なんとかしなければ……。そのためにも政権を一日も早く奪還しなければならない。このまま民主党政権に任せてなどいられない」その想いが強くあり、政権奪還後、私は「福島の復興なくして、東北の復興なし。東北の復興なくして、日本の再生なし」というスローガンの下、内閣の最重要課題として福島の復興に取り組んだのです。国政選挙の第一声は全て福島から行うなど、復興は安倍政権の大きな柱でした。
縦割り行政を排し、現場主義を徹底して、被災地が抱える個別のニーズを聞きながら、福島の復興を進めてきました。
復興を果たすためには何よりも経済の力が必要だと考えていた私は、民主党政権が進めた復興増税に反対の立場を貫き、政権奪還を見据えて代案となる経済政策について練り上げていったのです。山本幸三議員(元行政改革担当大臣)をはじめとした同志の議員、浜田宏一氏(イェール大学名誉教授)、岩田規久男氏(元日銀副総裁)、本田悦朗氏(元駐スイス大使)、高橋洋一氏(嘉悦大学教授)らといった、いわゆるリフレ派と称される皆さんとも出会うなかで、三本の矢の経済政策「アベノミクス」を固めていったのです。
当時は、行き過ぎた円高を含め「六重苦」(①超円高②法人税の実効税率の高さ③自由貿易協定の遅れ④電力価格問題⑤労働規制の厳しさ⑥環境規制の厳しさ)と言われており、日本の経済は危機に瀕していました。 「六重苦」を解消し、骨太の経済を構築しなければ復興は進んでいかない。そう考え、政権奪還直後から矢継ぎ早に三本の矢の経済政策を実行していったのです。