田村 読者の方もあまりご存じないと思うのですが、下村先生は九歳の時に交通事故で突然お父様を亡くされて大変な思いをされています。そうしたなかで、社会的に弱い立場の人たちの気持ちを痛いほど理解されている政治家だと私は思っています。
下村 私は群馬県群馬郡倉渕村という、いまは高崎市と合併していますが、人口6000人ほどの山間部の小さな村に住んでおりまして、父は農協の職員でした。忘れもしない1963年10月9日の夜のことです。台風の接近で、外の軒先から雨音が聞こえていました。 午後8時過ぎに自宅のダイヤル式の黒電話が鳴りまして、母が突然「父ちゃんがケガをした。病院に行ってくるからコタツに入っておとなしくしてなさい」と言って家を飛び出していったんです。ただならぬ空気を感じた私は、具体的な情報はまだ何もなかったのですが「お父ちゃんが死んでしまった」とピンと来ましてね、大好きだった父が突然いなくなることの恐怖と悲しみが押し寄せてきて、とにかく涙がとまりませんでした。
父を突然失ったことで生活は一変。母は当時32歳、長男の私が9歳で小学3年生、下に5歳と1歳の弟がいました。当時はまだ保険などもない。村には専業主婦の母が働けるようなところもなく、お金が入ってくる当てがなくなってしまったんです。生活は困窮し、まさにどん底でした。卵一個を兄弟3人で分けてご飯にかけて食べたり、その日一日をなんとか生きるという生活でした。 あまりの困窮を見かねた近所の民生委員の人が再三「生活保護を受けたらどうか」と母に勧めたんですが、母は自分が働けるうちは人の助けを借りないでやっていくという考えでした。
ある日、母から「大事な話がある、来なさい」と呼ばれ、薄暗い部屋で2人きりになり、こう言われたことを覚えています。 「いいかい博文、母ちゃんはこれからは自分で仕事を探して、自分の家で食べるぐらいの田んぼや畑はあるから自活していく。病気で倒れてどうしても生活ができなくなったら生活保護を受けるけれども、それまでは博文、しっかり手伝ってくれるかい」 「わかった」と私は言い、母の畑仕事を手伝いました。母は朝はまだ陽が昇る前から畑に出て、昼間はようやく見つけてきたパートに行き、夕方帰ってきてから夜遅くまで畑仕事をしていました。私は母が寝ている姿を一度も見たことがありません。「自分が働けるうちは人の助けを借りないでやっていく」――そう言った母の背中を見て私も育ちました。
街頭募金で流した悔し涙
田村 高校には進学せず、働こうと思っておられたんですね。
下村 下に2人の弟もいましたからね。母にも「弟たちもまだ小学生だから、昼間は働いて、夜間の定時制高校へ進んでほしい」と言われ、私もそのつもりでした。ところが、偶然にもこの年に、あしなが育英会の前身である交通遺児育英会の奨学金制度が発足し、高校奨学生第一期生として奨学金の貸与を受けることができたんです。同時に日本育英会(現独立行政法人日本学生支援機構)の特別奨学金の給付も受けることができ、高校進学が果たせました。 私が高校を卒業したあと、給付型ではなくなってしまったのですが、私が文科大臣の時に給付型の奨学金制度を復活するよう働きかけて、昨年4月から給付型が再スタートしています。
田村 あしなが育英会の発足が1年でも遅かったら、また違っていましたね。
下村 全く違った人生だったかもしれません。私は給付型の奨学金があったからこそ、苦しいなかでも安心して高校生活を送ることができたわけで、このような仕組みを作っていくことが政治の仕事なのではないか、とその時思いました。なかでも「教育」という環境を整備していきたいという気持ちを持つようになったのは、私自身の苦しい実生活が影響していることは間違いありません。 今年はコロナ禍で中止になっていますが、交通遺児の街頭募金にも学生時代に立ち、忘れられない辛い思い出があります。街頭募金は学生たちがボランティアでやってくれて、実際の交通遺児は各街頭一人ずつなんですね。そこで「交通遺児に進学の夢を」と皆で声を張り上げている時は、私はまさに自分自身のことなんです。募金をしていて有難いという涙と同時に、「自分は募金をしてもらわないと大学に行くことすらできない。なんて情けないんだ。これじゃ物乞いと一緒じゃないか」と街頭に立ちながら、辛くて辛くて悔し涙を流しながら「お願いします」と頭を下げていました。「もう後輩たちにこんな辛い思いをさせることがないような世の中を作りたい」ということも、政治家を志した大きな理由の一つですね。
田村 まさに政治家としての原点ですね。
下村 いま、交通遺児は減少する一方で何が増えているかというと、自死遺児なんです。それと病気遺児や災害遺児ですね。子供たちには何の罪もない。その子供たちに対して「運が悪かった」といって済ませ、彼ら彼女らが持つ可能性を潰してしまう世の中になど絶対にしてはなりません。それこそ政治の力なんです。 子供たちだけでなく、社会的に弱い立場の人たちにもしっかりと光が届き、誰にでも平等にチャンスがあり、可能性がある環境を作るのが政治家の役割です。 特にいま、コロナ禍で困っている人たち、社会的に弱い立場の人たちが辛い思いをしないよう、政治の結果責任が厳しく問われていると思っています。必ず結果を出して参ります。(初出:月刊『Hanada』2021年4月号)
1954年、群馬県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。平成元年、東京都議会議員に初当選。96年の衆議院総選挙において東京11区より初当選。以来、8期連続当選。自民党副幹事長、内閣官房副長官、衆議院法務委員長、文部科学大臣、自民党選挙対策委員長などを歴任。現在、自民党政調会長。著書に『9歳で突然父を亡くし新聞配達少年から文科大臣に』(海竜社)など多数。最新刊『GDW興国論ー幸福度世界一の国へ』(飛鳥新社)が4月23日発売。