身近な人が撮影を
──本作の特徴は、奥山さんが常に松村さんの傍にいて、彼に向けてカメラを構えているのではなく、松村さんの身近にいる社員さんなどにカメラを託してしまっているところです。監督がカメラを放棄するドキュメンタリーってないですよね。
奥山 初めて会ってすぐに「この人は映画にできるな」と思ったんだけど、いざこちらがカメラを構えると、サービス精神旺盛だから演じちゃうんですよ。逆に不自然で、本当の松村さんの姿を捉えられない。だったら、もう身近な人にカメラを渡して、普段の姿を撮ってもらおうと考えたんです。
ドキュメンタリー映画の特権は、画面がぶれていようが、焦点が合ってなかろうが、そこで何をしているのかさえわかれば画面の質は二の次になること。だから素人である社員でも、ボタン1つで映しておいてもらえば、それが映画の素材になったんです。
深作欣二さんは、「人間を見て、その人が楽しければカメラを向ける、それだけでドキュメンタリーはできあがる」という発想の人でした。だけど、それは名匠、巨匠だからなんですよね。僕1人の力ではとても無理だから、いろいろな人の力を借りました。あとから見返してみたら、僕が撮ったところは使えず、社員が撮った映像のほうがいいものばかりでしたよ。
──全部で何時間分くらい?
奥山 どれくらいだろう。たぶん、映画本編で使ったのは1%くらいです。
──編集が大変だったのでは。
奥山 まず、ざっくり作ったら2時間45分くらいになって、どこをどう削っておもしろくしようかと悩みました。いつも松村さんのそばにいる社員とそばにいない僕とで、どこがおもしろいか、どこに興味を持ったのかを話しながら編集していきました。
奥山和由(おくやま かずよし)
1954年生まれ。大学在学中に深作欣二、斎藤耕一などに師事。1982年『海燕ジョーの奇跡』で映画製作に初めて携わり、その後『ハチ公物語』『226』『その男、凶暴につき』など多数のヒット映画をプロデュース。1994年『RAMPO』で映画初監督、日本アカデミー優秀監督賞などを受賞。1997年製作の『うなぎ』(監督/今村昌平)では第50回カンヌ国際映画祭パルムドール賞を受賞。『地雷を踏んだらサヨウナラ』でロングラン記録を樹立。
負の部分が魅力
──序盤で監督が画面に登場して、この映画の撮影の意図を説明しだしたのには驚きました。
奥山 僕がプロデューサーだったら、ドキュメンタリーで監督が出て来て説明するなんて「ふざけるな」と言うところですが(笑)、インチキ監督なので、「こういう無責任な撮り方をしましたよ」と言い訳をしておいたんです。ただ、結果的にはいろいろな人がカメラを持つことで、松村厚久という人物のプリズム状の光を撮れたと思います。
この撮影方法について、『キネマ旬報』の元編集長が楽しんでくれたり、脚本家の鎌田敏夫さんも褒めてくれましたよ。鎌田さんなんかテレビドラマの巨匠だから、こんなやり方は怒られるかと思った(笑)。
あと、試写会に安倍昭恵さんも来られて、「熱狂しました」と仰ってくれました。「私もハンディカメラで主人を撮ったら映画になるのかな」とも(笑)。そりゃなりますよね。
──ナレーションや説明などは一切ありませんでした。
奥山 当初は役所広司さんにナレーションをお願いできたらと思ってたんですが、ナレーション原稿を考えると、どうも合わない。言葉にしてしまうと分かりやすいんだけど、カッチリしすぎてイメージが固定化されるんです。松村さんの魅力というのは、活字にならない行間みたいなところにある。ロジックで考えるとそぎ落とされる負の部分と言えばいいのかな。
僕には外食産業のことはわからない。松村さんのビジネスマンとしての評価もわからない。だけど、とにかくストレートで、オープンマインドなのはわかる。では、何でそうなったかといえば、やはり病気になったからでしょう。
映画の素材として病気以前の資料を見たけれど、正直言っておもしろくもなんともない(笑)。もちろん百店舗百業態という目標を掲げてイケイケでやっていたけど、それは狙いすぎだったように僕には見えました。
そんな折に若年性パーキンソン病になり、発症まであと5年と言われてから、ありていな言葉でいえば「駄目でもともと」という感覚で、自然にアグレッシブになっていった。
人に会う時に具合悪そうに見られるのが嫌だから、華やかな格好をする。それが受けたからよりおしゃれに気を使う。足腰が自由に動かないのに、人の前に出てパフォーマンスもしたくなる。パフォーマンスをすれば、あとでぐったりしてしまう。そういう負を押し返そうとし、また反動が返ってきて……という狭間みたいなところがおもしろいなと思いました。