ここでは慇懃無礼な言い方をしているが、新保氏は上の発言の直後に、
ここで確認しておきたいのは「検定意見」とは「行政命令」であるという事実です。これはかなり厳しい処分を意味します。というのも、検定意見箇所を修正しない限り、教科書として発行することを文科省は許さないということですから。つまり、何が何でも直せという意味で、検定意見というのは極めて重い内容を持っていると言えます。
と発言している。いかに猫なで声であろうと、国家権力による強制力を伴っていることに変わりはない。しかし、それなら、何度も言うように、教科書調査官の恣意や思い込みに生殺与奪の権力を与えることは許されない。
だから、検定意見は客観敵に見て明らかな誤りを指摘することに限定されるべきもので、3-(3)のような検定基準を設けることは、必然的に思想検定(事実上の検閲)をもたらす間違った制度であるということになる。
1986年、ほぼ検定が終了し合格の形式上の最終決定を3日後に控えていた高校日本史の教科書が、朝日新聞の報道によって「復古調の日本史教科書」との烙印を捺され、文部省(当時)のどの規則にもない超法規的な検定を4度にもわたって受けさせられる、という出来事があった。新編日本史追加検定事件である。
しかし、当時は、検定意見の全てが強制力のあるものではなかった。「修正意見」(A意見)と「改善意見」(B意見)の区別があり、前者は従わなければ教科書の発行が出来ない強制力をもっていたが、後者は教科書会社が従っても従わなくてもよい参考意見どでも言うべき性格のものであった。
それが、現行制度では、全ての検定意見に強制力を持たせてしまった。さらに、「一発不合格」制度と組み合わされることで、今や教科書調査官がもつ実質的な権力は、検定史上空前の強大なものとなったのである。
以上のことから、「誤解するおそれ」を含む3-(3)の項目は検定基準から削除すべきである。もし、残す場合は、その項目は強制力のない、「改善意見」という位置づけにすべきである。
「新しい歴史教科書をつくる会」は歴史教科書の他に公民教科書の作成にも関与している。こちらのほうは、文科省の執拗な嫌がらせをかいくぐって、3月24日、検定に合格した。その後、極めて興味深い事実が判明した。公民教科書においても、「誤解するおそれ」の検定項目による意見が70%だったのである。
この事実をどう見るか。これは決して偶然ではないと私は考える。おそらく、教科書調査官の側に、この項目に過剰に依存することにはやましいところがあり、あまりに多用すると(すでにしているが)、不自然さがバレてしまうことを恐れて、7割程度にとどめるというガイドラインを内々につくっていると推測する。
いずれにせよ、教科書検定制度の改革は教育の正常化のために急務である。