「誤解するおそれ」という検定基準のデタラメさ
そこで、なぜ合計405件もの検定意見に膨れあがったのかといえば、偏に「理解し難い・誤解するおそれ」という項目を根拠とした指摘の膨大な数によるといえる。この項目が適用された検定意見の数は、405件中292件に達し、実に全体の72.1%を占めているのである。
3-(3)という整理番号で呼ばれるこの項目の全文は次の通りである。
「図書の内容に、児童又は生徒がその意味を理解し難い表現や、誤解するおそれのある表現はないこと。」
しかし、この条文は極めてくせもので、重大な欠陥を有している。もし、教科書調査官が自分の指摘に自信があるならば、3-(3)ではなく、3-(1)の「誤り」や「不正確」の項目を使うはずである。自信がないから、3-(3)に頼るのである。
「誤り」「不正確」ならば、客観的な基準があるから、争いの余地が少ない。これに比して、3-(3)では、「生徒」、「誤解」、「おそれ」、「表現」という4つのクッションがおかれている。この項目の含む問題点を解明してみよう。
まず、「生徒」が誤解するというが、本当に生徒が教科書調査官の指摘通りの誤解をするのかどうか、何か実証的なデータや教師による実践記?などの証拠があるのかといえば、そんなものはあるはずがない。単に教科書調査官がそう思うというに過ぎない。自分の単なる思い込みを「生徒」になすりつけ、生徒を隠れ蓑にして主張しているのである。
もし、教科書執筆者の側が「誤解しない」と主張したら、どういう方法で決めるのか。「する・しない」の水掛け論になるのがオチである。そこで、教科書調査官の方は権力をもっているから強制できるという次第になっている。ことを決するのは、真理がどちらにあるかではなく、権力がどちらにあるかである。これは極めて不当なことだ。
次に、「誤解」とは、何を基準にするのかということである。
これは結局、正解を教科書調査官が決めていて、それと違う読み方をされるかも知れないから欠陥だ、と言っているにすぎない。しかも、ご丁寧に「おそれ」という言葉までつけている。「誤解するおそれ」と言えば、どんな文章でも誤解するおそれはあることになろう。だから、教科書調査官はやりたい放題である。
さらに締めくくりは「表現」である。事実がどうかよりも、表現の仕方を問題にする。もうこうなったら、何でもありの世界だ。
要するに、405件のうちの72%を占めているのは、教科書調査官の恣意や思い込み、私見、イデオロギーまでも忍び込ませることのできる悪名高い項目を悪用して絞り出された可能性のあるものなのである。
仮に、この項目による検定意見292件を405件から引き算すれば113件となり、学び舎の144件を下回るのである。
「誤解するおそれ」を連発する教科書調査官
教科書調査官がいかに3-(3)を便利な道具にしているかは、教科書調査官自身の証言からも明らかだ。
元教科書調査官の新保良明氏(世界史)は、2016年3月19日に開かれた公開シンポジウム「高校世界史教科書の記述を考える」において次のように発言した。
私の場合は、もうやめてしまったから言いますけれども、「誤解するおそれ」を多用しました。これなら嫌がられないからです。つまり、その執筆者の先生の言わんとすることはわかるのですけれども、でも、この書きぶりだと、生徒はこういう風に誤解するかもしれませんね、だからちょっと修正を加えていただけませんか、その趣旨がずばり伝わるように変えてくださいという修正要求のために、「誤解するおそれ」を用いました