1階に知らない人がいるのだから、太郎が下へ降りていったとは考えられない。やっぱり2階にいるはずだ。その日1度も開けていない戸棚も全部開けてのぞいてみる。2階にある物干し台へ出る扉は開け放しになっていたが、物干し台の柵にはすべてネットを取り付けて、猫がその間から出られないようにしてある。これまで何度もヒヤリとしてきたのだから、対策に抜かりはない。
の、はずなのだが……。太郎はまだとても小さい。もしパニックになって、何かの拍子にすり抜けてしまったとしたら?
外に出て、物干し台の下をくまなく探す。むくむくと茂っている草むらも、箒の柄でつついたり叩いたり。太郎ー、とできるだけ優しく呼びかける。何の気配もない。
まだ信じられない思いのまま、会社にいる夫に電話をする。校了作業の追い込み中で、仕事の邪魔はしたくないが、万が一このまま見つからなかった場合、夜になって帰ってきてから知らせるよりはまだショックが小さいだろう。
太郎を溺愛していた夫である。太郎も夫になついていて、いつも仕事から帰ってきた足音を聞きつけると、部屋の中からミーミー鳴いて呼んでいるのだ。
「あのね、太郎がいないのよ……」
「えええっ」
夫がいつもいつも、膝にのせてかわいがっていた太郎。肩にのぼって耳をペロペロなめるので、くすぐったくて仕方がないと悦に入っていた太郎。床に落ちていた荷造り用テープを私が捨てようとすると、「それは太郎が気に入っているオモチャなんだ!」と怒り、振り回すといつまでもじゃれついていた太郎。……
「何をやっているんだー!」
何をいわれても仕方がない。少し大きくなったし、この家にもなじんでくれたと油断していた私が悪いのだ。どうして最初から、隔離しておかなかったのか。知らない人が来てびっくりしていた太郎を見たときに、どうしてそのことに気づかなかったのか。
Tさんたちも心配してくれながら、それでも予定通りの作業をがんがん音をたてて進めていく。もし太郎が家のどこかに隠れているとしても、工事が終わるまでは出て来ないだろう。
会社の夫からは何度も電話がかかってくる。仕事が手につかない、というのである。もちろん、よくわかる。iPadで大量に撮った太郎の写真を眺めながら、涙ぐんでいるそうだ。
「ぼくが電話しても君がつらいだけだろうとは思うんだけど、いたたまれなくて」
と一応、私に気を遣ってくれながら、
「太郎は外の様子も知らないのにどうしているのだろう。裏の空き地で倒れているのではないか。きっとお腹を空かせているからかわいそうだ……」
などとめそめそ繰り返し、私の心の傷に塩をすり込む。
いたたまれないのは私も同じだ。でもいまや、待つしかないのである。こんなに探しても人間の目では見つからないのだ。だとしたら、太郎が自分から出てくるのを待つしかないではないか。
本当に、外に出てしまったのだろうか。だとしたら、カラスに襲われる心配もある。それに今日はよく晴れて、ぐんぐん気温が上がっている。あの小さい体で、熱中症になっていないだろうか。どこかケガをしていないだろうか。
私だって泣きたいのである。
夕方になって、Tさんたちも帰っていった。おとな猫たちも隠れていたところからのそのそ出てきて、お腹いっぱいに夕食を済ませた。それでも太郎は出てこない。
夜はどんどん更けていく。ご近所はいつも通りの平和な、静かな夜だ。もう一度、二度、と外を歩いて太郎を呼ぶ。太郎は生きているのか、それとも死んでしまったのか。
もう、太郎には一生会えないのか。生まれてたった3か月のちっちゃな猫に、こんなにつらい思いをさせてしまった。私もきっとこれから一生、後悔しながら暮らすのだ。
それとももしかして、太郎がうちにいたひと月と8日の方が、夢だったのだろうか?
何もできないまま、疲れてうとうとしていた夜11時。ようやく夫が帰ってきた。玄関を開け、ただいまもいわずに、
「太郎を探すぞ」
という。
昼じゅうずっと電話で話して、これだけ探して家の中にいないのなら、やっぱり物干し台から落ちたのかもしれないということにはなっていた。2人で騒がしくして太郎がおびえるといけないから、と、まずは夫に懐中電灯を渡し、ひとりで行ってもらうことにする。
「太郎、太郎」
庭で夫の声がする。私は家の中でおろおろするばかり。
「太郎。父さん、帰ってきたよ」
と、そのときか細い声で、
「……ミー、ミー、ミー……」
えーっ!
「おい、太郎が鳴いているぞ!」
聞こえてるよー! 家を飛び出した私に、
「太郎の缶詰め持ってきて! それからこんな小さな懐中電灯じゃダメだ、もっと強力なのはないのか!」
子猫用缶詰めを皿にあけて夫に渡し、懐中電灯を探し回る。そうだ、非常用持ち出しリュックの中にあったはずだ。……あった、あったけど、こ、これはどこに電池を入れればいいのか??
「おい、何をもたもたしているんだ!」
夫が玄関から飛び込んできた。
「太郎はつかまえたよ」
夫の腕の中に太郎がいた。私もしっかり抱きしめる。これもまた、夢ではないだろうか。もう涙も出ない。
太郎はその夜、一晩じゅう、夫にすがりついて眠っていた。
庭の見える踊り場で
パパっ子過ぎる太郎
夫の話では、太郎は最初、物干し台の下の物陰から飛び出してきたのだという。それから庭を突っ切ってタイサンボクの大木の裏を回り、隣家の庭の物置と壁の隙間に頭を突っ込んでもぞもぞしていたところを、缶詰めの匂いでおびき寄せ、抱き上げたのだという。
あのー、物干し台の下って……。私が何度も探しまわり、何度も名前を呼んだところではないか。いったい、どういうことですか?!
翌朝、夫はいつも通り仕事に出かけ、私は太郎を動物病院に連れて行った。13時間も屋外にいたのだからドクターチェックが必要だ。つまり、太郎にとって嬉しくないことをするのが、私の役回りなのである。
病院で虫がついていないか体じゅうをなで回され、体温を測られ、目薬を差されてのぞき込まれる。太郎は左側のヒゲだけが、なぜかスパッと短くなっていた。落ちたときに切れたのか、どこか狭いところに無理にもぐり込んでちぎれたのか。
「この子、夫が呼んだときにだけ返事をしたんですよ」
診察台の上で太郎をしっかり保定してくれている、動物病院の院長夫人に私は愚痴をこぼす。
「私だってあんなに心配してたのに」
「あるある。私もうちでは同じよ」
院長夫人は明るくそういって、台の上で目を丸くしてじっとしている太郎に話しかける。
「ねえ太郎くん、昨日は怖かったでしょ? 反省してね」
まったく太郎ときたら、どこまでパパっ子なのだろう!
それでも昨日、物干し台の下の草むらで、1日じゅう体を固くしていた太郎の耳にも、私の呼ぶ声は届いていたのに違いない。太郎、太郎。そしてそれが自分の名前なのだということを、小さな頭で考えていただろう。
夫が帰ってきて、自分を呼ぶ声がもうひとつ増えた。そのとき太郎は、ここが自分の家なのだとはっきり思い出したのかもしれない。
ノラ猫の両親から生まれた太郎。その太郎が自分で草むらを飛び出して、私たちの家に帰ってきた。あの夜、私が抱きしめたのは、その小さな信頼だったのだ。
(帰ってきた日:令和8年7月14日)
※note「瀬戸内みなみの『猫とおさんぽ』」より転載
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