監視役にも監視役がつく相互不信
ロシアの世界観のベースにあるのは、徹底した相互不信だ。基本的に相手を信じないことからすべてが始まっており、それは対象者が国外の人間だろうが、国内の人間であろうが関係ない。日本も「世間体」という名の「相互監視の目」がないとは言わないが、ロシアはその比ではない。
保坂三四郎著『諜報国家ロシア―ソ連KGBからプーチンのFSB体制まで』(中公新書)は、ウクライナで近年公開されたKGB文書などから、ソ連時代の情報機関の動きと、それを継承したロシアの現状と、行動原理を描き出している。
ソ連成立時に由来する、ボリシェビキによる革命派への潜入、行政府への浸透などの諜報戦を戦うために設けられた反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会(チェーカー)が暗躍し、敵の浸透を防ぎ、密告・工作ネットワークを形成する。社会のあらゆるところに、あらゆる肩書で浸透し、裏切り者は摘発し、同胞・外国人を問わず協力者を獲得し、目的のために働かせるのだ。
その思考は「どこに敵がいるかわからない」「誰が自分たちの体制を崩壊させる陰謀を企てるかわからない」という強烈な猜疑心に彩られている。組織内の裏切りを監視する役職の人間にも、さらに監視役がつく徹底ぶりだ。
それはソ連が崩壊し、ロシアになってからも変わらない。むしろKGB出身のプーチンによって、行政とKGBの一部の機能を継承した連邦保安庁(FSB)、さらにマフィアが一体化した三位一体体制「システマ」として結実したと本書は指摘する。
さらにはその資金力と権力で、メディアはもちろん、さまざまなフロント組織を作り出し、「ロシアにとって都合の良い状況」を作り出すための工作に邁進し、体制の維持を図っているのだ。
安倍対ロ外交政策を歪めたエージェントとは
本書では具体的な工作の実例がいくつも紹介されているが、例えば「貴重な文書をお見せする機会を設けましょう」と海外の学者を口説き、「あなたにだけ、とっておきの情報をお知らせします」と海外の政治家やジャーナリスト、外交官を篭絡する。
クレムリンが毎年開催する「ヴァルタイ討論クラブ」などはまさにその装置の一つで、一見、くだけた雰囲気ゆえに、ロシア政府関係者の発言を「つい本音を漏らした」と受け取ってしまう参加者もいるという。
だがそれは〈ロシアの戦略を補助する「演劇的役割」を担う〉と筆者は指摘する。
それに気づかない参加者が自国に戻って「ロシアという国は、本当はね……」などと話し始めると、見事にロシアにとって都合のいい情報や見解を振りまく「宣伝マン」に成り下がるのだ。
少なくとも国家の息のかかったロシア人と、外国人が関係を結ぶ際に「交流」や「互いの信頼関係」をベースに解釈してしまうと、いいように利用されることになる。
こうして宣伝マンに仕立て上げられる人物は、ソ連時代から「インフルエンス・エージェント」と呼ばれる。〈クレムリンのありがたいメッセージを預かった外国人〉として、〈帰国後にメディアや学会、時には政府に対し「欧米の主流の見方は~だが、ロシアは~と考えている」というオルタナティブのナラティブ(代替的物語)を拡散させる〉のだ。
インフルエンス・エージェントと目される人物の助言が政治に直に影響を及ぼした例は、日本にもある。本書では安倍政権時代にしきりに言われた「ロシアを遠ざければ中露同盟が成立してしまう。ロシアをあちら側に追いやってはいけない」というナラティブの流布が挙げられる。
こうしたナラティブに乗り、安倍政権は融和的な対ロ政策を行ってきた。結果、北方領土がどうなったかはご存じの通りだ。