ツキノワグマの目撃件数が激増
美しい上高地の景色
上高地は空が近い。なにしろ標高1,500メートル、北アルプスの谷間に突然現れる、小さな奇跡の平坦地なのだ。穂高岳など3,000メートル級の峰々が山肌もあらわに目の前にそびえ立ち、青い空に鋭い頂を輝かせている。その絶景が最大の魅力だ。
そしてもうひとつ。上高地では、ひとと動物との距離がとても近い。
「もともと動物がいる奥深い自然のなかに、われわれがやってきたんですから」
国立公園管理官の松野壮太さんがいう。上高地は中部山岳国立公園の一部、かつ特別名勝・特別天然記念物で、全体を包括的に国が管理している。松野さんは上高地に常駐する環境省のレンジャーだ。
そう、大型哺乳類から鳥、魚、昆虫まで、ここには数えきれないほどの生きものが棲んでいる。険しい山々に阻まれ、閉ざされたこの地にひとが入るようになったのはせいぜい江戸時代以降。上高地の名が広く知られるようになり、ようやくバス道路が開通したのは昭和になってからである。だから彼らのほうが先住者だ。
しかし近年、先住者のなかでもツキノワグマやニホンザルと、ひととの距離が近すぎるのではないかということが大きな問題になっている。ツキノワグマの目撃件数は平成30年まで年間80件以下だったものが急激に伸び、いまでは年間150~170件ほど。またニホンザルは遊歩道で列をなしてひととすれ違い、すぐ頭上で悠々と木の葉や実を食べている。昔からそうだったわけではなく、最近になって明らかに距離が縮まってきたのだという。
だがそんな状況下でも奇跡的に、動物がひとに依存する行動や大きなトラブルは発生していない。これが春から晩秋までのシーズン中に120万人が訪れる、人気観光地の現在だ。
動物園感覚の観光客
「私は、上高地の野生動物とひとの関係性は『共存』の理想形に近いと思っています」
松野さんは学生時代、動物生態学を研究していたそうだ。専門はタヌキ。
「こんな距離感で野生動物を見られることはまずありません。希少だし、魅力的ですから、この関係性を維持していきたい。
しかし日本は自然が身近で、そもそもひとと動物との距離感が近いのか、観光で来たひとたちが野生動物を見ている様子にはヒヤヒヤする場面があります。動物園感覚というか……」
確かにだいたいの日本人にとって、動物の姿を見ることは嬉しい。その距離が近いとなお嬉しい。昔話ならタヌキもキツネも、なんの不思議もなくひとと会話をする。それに上高地には農地も、民家もないから、クマもサルも「害獣」とはみなされていない。
「ひとが餌付けをせず、彼らもひと由来の食べものに依存したりせず、お互いに干渉していないという状態は貴重です。あっ、ちなみに国立公園内で野生動物に餌をやることは法律で禁止されています。生態系や自然環境を乱す行為ですから、30万円以下の罰金の対象となります。
幸いなことに上高地ではまだ、野生動物がひとに依存しない状態が保たれていますが、他ではすでに問題になっているところもあります。知床では観光客が、キタキツネやヒグマを餌付けしてしまったり」
ヒグマに餌をやるなんて、あまりに命知らずのように思えるのだが。そこまでしてひとは、いや日本人は、動物に近づきたいのだろうか。その欲求の源はいったい何なのだろう。
「ツキノワグマが安全だと思うようなひととの距離感は、本来数百メートルほどが通常なんですよ。ですがここでは30メートル以下。上高地のシンボル、河童橋が全長約37メートルですから、それより近いところまでクマは来てしまう。クマのほうがひとを気にしていない。
サルとの距離感も、以前が数十メートルだったとすると、いまは5メートル、2メートルと近づいている。裏を返せば、上高地には彼らが安心して生息できる自然環境があり、彼らもそのことを認識しているといえます」