今回の問題で、特に重要と思われることは、2点ある。
①無神論者の独走
先ず、この度改めて顕わになった保守派とリベラル派の間の対立は、今回の当事者であるフランスだけでなく、米国を含めた西洋圏に広く見られる問題だという点に留意したい(この点については、2020年11‐12月に、「西洋における『文明衝突』上・下」なる拙論を讀賣新聞(調研)オンラインに寄稿したのでご参照願いたい)。
特に米国では、人工妊娠中絶の是非を巡る対立が激しい。近年、この対立が文明的・文化的範疇を超え、政治的な対立の色彩を強めていることが、米国社会をギクシャクとさせており、とても気がかりだ。
政治化している以上、この対立は、米国大統領選挙を含め、国際社会の動向を見極める上から、外交官であれ、ジャーナリストであれ、学者であれ、しっかりと把握しておくべきだということになる。
この両者間の対立軸をより詳しく書くと、こうなる。
・超リベラル派(ネオリベラル) =脱宗教、反宗教、人工妊娠中絶容認、LGBTQ容認、ウォーク(ネオリベラル原理主義)推進
・超保守派=敬虔な信仰心、親宗教、人工妊娠中絶否定、LGBTQ否定、反ウォーク
ちなみに、前者が特に強いのは、フランス、オランダ、北欧、米国沿岸部(NY、シカゴ、カリフォルニアなど)、豪州など、これに対し、後者の牙城は、バチカン、南欧、米国南部・中西部などである。
このうち、フランスについて言えば、同国は、「自分は無神論者」だと自認す人の割合がEU27カ国の中で最も高い(40%)国であり、「無神論国」と言って過言ではない。
かかる背景の下、同国は、「ライシテ」と呼ばれるフランス版世俗主義を「国体」とし保持し、宗教には厳しい姿勢を取る一方で、ネオリベラル、分かりやすく言えば、無神論者、反宗教勢力に対しては寛容な姿勢を示す。この性向は、基本的には、フランス革命以来ほぼ一貫して維持されて来たものである。
各国の右派勢力が「LBGTのプロパガンダ」そのものであるとして強く反発した今回の演出は、フランスの無神論的体質抜きには考え難い。伝統派をいたく怒らせたあのような演出を自由かつ大規模に行い得たのは、当局による理解、庇護、ないし支援があったからであろう。ネオリベラルと当局は、下品な言い方になるが、「つるんでいる」ということだ。
加えて、今回あのような演出を可能にした要素として、総監督はじめ関係者に無神論者がいたことと、ゲイの人がいたことの二点があると推察する。総監督は、キリスト教徒を傷つける意図はなかったと言っている。嘘はないだろう。
ただ、そもそも論になるが、かれらがLGBTQなどのテーマを持ち出し、主張するだけで、つまり、普通に振舞うだけで、信仰者の心をかき乱す場合がある。彼らは無自覚なまま、宗教者の心を苛立たせる場合がままあるということだ。ここに、この問題の深刻性がある。
「無神論的メッセージ」という「宗教的メッセージ」
②無神論者による五輪の「乗っ取り」
今回、各国の保守派はこぞって、「文化公演はLGBTQのプロパガンダであった、けしからん」と糾弾した。その気持ちは良くわかるが、もう少し精緻に議論を進めよう。
仮に、過激な演出であったとしても、民間の普通の劇場で自主的に公演されたものであったなら、文句を言うことは出来ない。フランスであれ、米国であれ、ある監督がLGBTQ色濃厚な映画を作り、一般公開されたとしよう。評論家は別として、公職にある者が文句をつける訳にはゆかないはずだ。
しかし、今回は違う。五輪という極めて「公共的な空間」であのように一方的内容の公演(少なくとも、保守派から見れば)が行われたわけで、批判するとすればこの点を突くべきなのだ。が、右観点からの批判は、何故か抜けていた。
要は、五輪開会式を見たいと望んでいた各国の人たちは、好むと好まざるとにかかわらず、このプロパガンダ公演を見ざるを得なかった(私もその一人だ)。かかる「押し付け」を許したフランス政府、並びに、IOCの責任が問われて然るべきであろう。
ネオリベラルに寛容なフランス政府のことだ。今回の演出については確信犯的にエンドースしたものと推定される。
が、その内容は、五輪とも、大多数の参加国とも「無関係」な話であった。主催国といえど、何をやってもいいということにはならない。イタリアのメディアが指摘したように、フランス政府および演出家は、明らかに「やり過ぎ」であり、「独りよがり」であった。
そもそも、フランスが国是とするライシテという理念は、宗教活動に類することは公共空間から締め出すことを旨とする。
今回のような公共空間でのイベントで、宗教的メッセージを披露するような機会をフランス当局が宗教関係者に与えることは、原理的にあり得ない。それを許せば、ライシテの理念に抵触するからだ。
然るに、今回の公演で無神論者が発出した「無神論的メッセージ」は、明らかに「宗教的メッセージ」と言えるものである。その意味では、当局はこれを公共的空間で発表させるべきではなかったという理屈になる。が、実際にはこれを許した。
当局は、宗教者には厳しく当たるが、無神論者には寛容だという意味で、「均衡」を失している。
日本のメディアの多くは、「多様性、包摂性」などのマジック・ワードに幻惑させられており、今回の公演を賛美した(内容が内容だけに、積極的にそうしているとは思えないが、同業者に合わせて「いいな」と言っておくことが無難と考えていたのだろう)。だから、批判者の発言を積極的に取り上げることには関心が薄く、ローマ教皇による批判を別とすれば、黙殺した。
今回の文化祭を巡る騒動は、ネオリベラルと保守の「対立」をビビッドに浮き彫りにしただけでなく、ネオリベラルによる「押し付け」を唯々諾々と受け入れる日本マスコミの無関心ぶりもあぶり出したのだった。
(8月12日記)
1948年東京生まれ。1970年東京大学教養学部を卒業後、外務省入省。1973年英ケンブリッジ大学経済学部卒業、のちに修士課程修了。国際交流基金総務部長、スペイン公使、メルボルン総領事、駐グアテマラ大使、国際研修協力機構(JITCO)常務理事を経て、2006年10月より2010年9月まで、駐バチカン大使、2011年4月より杏林大学外国語学部客員教授。著書に『現代日本文明論 神を呑み込んだカミガミの物語』(第三企画)ほか。論文、エッセイ多数。