中国のヒステリックな反応
8月24日に、日本国政府は福島第一原子力発電所の処理水放出を開始した。それ以降、放流中止を求める中国政府、同国報道機関による言動が実に喧しい。ヒステリックな反応もあり、大国を自認する中国には、もう少し泰然、悠然たる気風を期待したいものだ。
最も肝心なことは、対立点は何かという点だ。枝葉末節を取り払えば、争点は単純な図式――処理水放流は「安全」か否か――に還元・集約される。これを「安全だ」とする日本政府と、「安全とは言えない」とする中国政府の主張は、真っ向からぶつかりあっている。
では、どちらの言い分に理があるのか。答えは明らかであろう。
私は国際社会に、「日本と中国、どちらを信用するのか」を問うべきだと思う。以下、どのように訴えればいいか、提案したい。
目下、日本と中国の間では、福島第一原子力発電所からの処理水放出を巡り、見解の相違に基づく論争が続いている。簡単に要約すれば、日本側は「処理水は安全だ」と言っているのに対し、中国側はそれを否定している。
また、日本側は「今次措置を取るに至る過程で、国際機関(IAEA)と長時間にわたり慎重に協議を重ねてきている」とするが、中国側は、「IAEAは処理水放出を認めたわけではない」という。
処理水の安全性の問題は、極めて複雑な問題だ。日本と中国の言い分を対比して、どっちに理があるか。どちらの政府のほうがより信頼できるかにつき、考えてほしい。
要は、国際社会から両国がどれだけの「平常点」を得ているかだ。日ごろの両国政府の言動を良く承知している国際社会の国々には、公平に判断してもらえるだろう。
フェイクの極み
今回のような、国民の安全と安心にかかわる極めて機微な事案につき、日本政府が手を抜くとかごまかすといったことをすることは、政権の「命取り」になる。その意味から、今回の事案に関しては、日本国政府に一定の信頼を置いてよい。
民主主義の日本では、政府は常時国民、政治家、メディアなどから監視されており、「海を汚す」(中国高官は「海は日本の下水道ではない」と発言)といった愚策を講ずることは、到底不可能なのだ。以上の点が、今回の事案につき政府を信頼できるとするわれわれの判断の基礎にある。
他方、中国政府に対しては、日本国政府に対してと同じレベルの信頼を与えることはできない。
われわれが日本人だから身びいきして言っているわけではない。
それなりの理由がある。二点挙げよう。
まず、中国は国際機関を尊重すると言いながら、国際機関の決定を無視した前科がある。南シナ海における中国の領有権を否定した常設仲裁裁判所の判断を、「紙屑」視したことは記憶している人も多いだろう。
今回も、IAEAの判断を無視・否定する立場を貫いている。中国政府は、いつからIAEAの上に立つようになったのか。異論があったら国際機関の場で表明するべきで、国際機関を軽視する中国政府の振る舞いには、首を傾げざるを得えない。
第二に、中国政府には「存在しないもの」を「存在する」と言い張る癖、得意技がある。いい例が、南シナ海の「九段線」(中国が勝手に地図上に引いた中国の領海を示す線)だ。国際法上、全く根拠がないものだが、あたかも国際法的に有効なものの如くに振舞っている。
しかも、中国が八月に公表した最新地図では、これを「十段線」と改称のうえ、厚かましくも、南シナ海の九割は自分のものだと主張した。
中国の主張は、ローマ帝国の流れを汲む(?)イタリアが「地中海は自分のものだ」と言い立てるようなもので、「捏造」(フェイク)の極みというほかない。
処理水の事案も同様、IAEAが「事実上、危険は『ない』」と認めているにもかかわらず、危険が「ある」と言い張っている。敢えて紛争を作り出したいのだろう。
国際社会全体が今回の件でこぞって日本を批判しているとも言っているが、これも「不存在」を「存在している」と言う得意技の顕われだ。